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2006年07月30日

時間に棲む魔物

なぜ、僕らは「時間」と「空間」を区別できるのでしょう。この宇宙の広がりの中の一構成要素である「時間」を特別視することが生命にとって有利だからなのでしょうか。時間も空間も幻であることが、相対論で明らかになって、それが正しいとするなら、この世にある絶対的な基準は光速になります。それに付随して時間と空間が生まれるわけですが、時間軸と空間軸を採用する理由は、僕らがそれらを区別する能力を持ち合わせているからでしょう。時間と空間は物理量として異なる性質を持っているのかもしれませんが、どのように異なるのか結局僕には理解できません。「時間は距離だ」という考えを肯定すると、次元とは、まさしく、時間も空間も区別できない純粋な広がりを示しているはずです。そして、その広がりの中にある「時間」という特殊な魔物に僕らは怯えているようです。なぜ「時間」を描くことができないのか、なぜ「時間」は複数の次元を持たないのか。「時間」には僕らが見つけることができない魔物が本当に棲んでいるのかもしれません。

投稿者 はるお : 23:19 | コメント (1995) | トラックバック

2006年07月28日

ただ知りたいだけ

今日ミーティングをやっていて、純粋に「つくること」って人に快感を与えるものなんだなと思いました。逆の言い方をすると、つくるだけで満足してしまう可能性も多大にあるという恐怖感も覚えました。それだけ、「つくること」は人を快感に追いやってしまうものなのかもしれません。何かをつくって、その喜びに浸ることは、誰にでもあります。何かが完成した時の喜びは他に例えようがないでしょう。だから、何かを作ることが目的化してしまうことがあっても個人的には問題ありません。その考えを否定したり、横槍を入れたりするつもりもありません。しかし、僕のような自然科学をやっている者の視点に立つと、何かをつくることが研究の目的と化している状態に関しては、いささか不安を感じるのであります。

エンジニアならそれでいいと思うのです。それは立派な仕事であり、研究であります。彼らは、ある問題解決になるためのツールなどをつくっているわけです。そして、試行錯誤はあるものの、何かしら形になるものができるはずです。それは、時として多くの科学者を助けてくれるウルトラマンのような存在にもなるわけです。

でも、そのツールをつくった本来の目的は、対象となっている問題が解決されることにあるはずです。完成したツールを使うことで、自分が問題と意識している事象を解き明かしたり、理解したりできることが重要なはずです。だから、問題が解決しないツールをつくっても、目的が達せられないと考えることもできます。幸い、これまでの工学的なツールは便利なものが多く、多種多様な問題を解決してきました。なので、こんなツールをつくれば便利だと思えば、失敗はあれど多くの作品が問題解決を支援してきました。これは、今までの問題がそう複雑ではなかったことも一因であるし、問題を単純化して解決を図っている場合もあります。

しかし、僕らが相手にしている研究課題は、複雑な生命システムの理解です。このシステムを理解するためのツールづくりを始めるのなら、相当思慮深い戦略と、妥当性の検証が繰り返し行われるべきです。特に、大掛かりなものをつくろうと考えているならなおさらです。つくっているものが本当に役に立つのか、本当に問題の解決になるのか、たびたび振り返らなくてなりません。時には、道半ばでも、妥当でないと判断した場合は、大きく方向を変えなくてはなりません。だから、常に問題解決を達成できるかどうかを意識しながら仕事を進めるべきなのです。モノが完成してから、これじゃやっぱりダメだでは遅いです。だから、つくることがあまりに面白くなりすぎて、つくることだけに没頭して突き進んでしまうと恐ろしいことになります。こんなすごいものをつくったのに、何も自然界を理解できなかったという結果になったら、僕は悲惨に思ってしまうことでしょう。もちろん、つくっている当事者が、つくったこと自体で満足がいっているなら問題はありません。もしかしたら、使いようによっては、すごい結果を叩き出すツールになっているかもしれませんし。でも、それはやはり自然科学者の仕事ではないと思うのです。自然科学者はこの世界がどのように成り立っているのかを理解できる形で提示するのが仕事です。自然科学者の友を無理やりエンジニアにしたくないのです。科学者としての仕事を彼にさせて欲しい…。

どうやって、モノをつくるかという視点はとても大事です。自然科学者もその視点を忘れるべきではありません。しかし、自然科学者の研究する目的を工学関係の方達にも感じて欲しい。「いや、そんなこと分かっているよ」と言われるかもしれませんが、それは頭で分かっているだけです。自然を探求したいという僕らの感情を共有して欲しいのです。心で感じて欲しいのです。僕らはただ知りたいだけなのです、自分に納得の行く形で、自分の生きている世界を記述したいだけなのです…。

投稿者 はるお : 00:13 | コメント (2028) | トラックバック

2006年07月26日

審査結果は良し

研究を進めるために必要な実験施設から、使用許可が下りました。5月に提出していた研究課題で、その審査結果を首を長くして待ちわびていたのです。今年中に一度、播磨に行くことになります。たったの3日間ですが、この3日間で、十分すぎるほどのデータを取って来たいと思います。この実験は失敗が許されませんので、その日までに綿密で慎重な実験計画や予備試験を行わなくはいけません。成功するかしないかは、どれだけ実験準備が整っていたかに比例するでしょう。それでも、観測できない時は仕方ないのですが、考えられる対策は万全を期すつもりです。

これに伴って、共同研究者として協力してくれる先生の研究室で来週セミナーを行うことになりました。どういう目的で、僕がこの実験を申請したのかをきちんと説明してこようと思います。そして、その研究室の学生さんにも手伝ってもらうかもしれませんし、話が進めば、彼らの卒業研究にもなりかねないので、準備に抜かりはできません。彼らの興味をひきつけることができるようなプレゼンを心がけようと思います。そして、同時に、いい雰囲気づくりを積極的に行い、うまく協力して気持ちよく研究ができるように、真摯な態度で臨もうと思います。関わってくれる全ての人が楽しいと感じてくれる研究にしたいものです。でも、人前で話すのは、緊張しちゃって苦手なのですが…、頑張ります。

投稿者 はるお : 00:54 | コメント (90) | トラックバック

2006年07月24日

京都小めぐり

7月19日~21日まで、京都にある国際会館で、神経科学大会に参加してきました。関西で働いている友達と飲んだり、ポスター発表で延々と話し続けなくてはならなかったり、いろいろイベント尽くしでしたが、かなり実のある学会だったのではないかと思います。そして、次の日(22日)は、楽しみにしていた京都観光。学会会期中は一日中雨だったのですが、この日に限ってお天道様はすっかりご機嫌でした。名前は、「はるお」ですから、漢字は違えど、晴れることには縁があるのかもしれません。とにかく、大好きな“旅行”ができることが、たった一日といえども、僕にとっては心のオアシスなのです。

京都を一日で廻るには限界があります。14年ぶり(中学の修学旅行以来)の京都観光のテーマは、「天下人の討伐」です。つまり、「信長・秀吉の最期」に縁があるもの、「本能寺の変」や「大阪(冬・夏)の陣」に関与した建築物を巡るということです。その他、その周辺にある多くのお寺や小路に寄って行く、のらりくらりの一人旅。最終的に、この日に辿った経路は次の通りです。

ホテル(烏丸五条)→本能寺→河原町→祇園→八坂神社→円山公園→高台寺→清水寺→方広寺→三十三間堂→京都駅

3晩お世話になったビジネスホテルを後にして、烏丸通りを北上、六角通りを右折し、六角道を横目に見ながら、寺町通りの北部に位置する本能寺へとまずは足を運びました。本堂が見たいというよりかは、信長の墓が見たいというのが素直な動機でしょう。本道の横から裏道を進んで行くと、信長公廟の文字が正面に見えます。本能寺の変の後、息子の信孝により骨の収集作業が行われ、この地を墓所にすると決めたそうです。

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河原町は京都の中心地、とにかくいろんなお店がありました。実は前日に三嶋亭ですき焼きを食べたのですが、こんなに本能寺が近かったのかと、この時初めて気が付きました。寺町の裏通りを抜け、鴨川を越えて祇園へ。新橋通、花見小路などをうろうろしてみます。舞妓さんがいたら、絶対写真を撮ろうと思っていたのですが、結局時間が悪かったのか、遭遇することはありませんでした。そのまま、「松葉」というお店で、名物のにしんそばを頂きました。

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気温もグングン上がり、日差しも強いのですが、お店を出て東に向かいます。八坂神社から円山公園へ。池にはカメの親子が日向ぼっこをしている姿があり、何とも愛らしいです。ねねの径から高台寺へと足を伸ばします。秀吉の妻、ねねの墓があるところでもあります。そして、なんとも庭園が広々としていて、趣き深い。こんな和風の庭園、自分ちにも小さくても良いから持って見たいものです。汗も滴る中、甘味処が僕の心を刺激してきます。高台寺にも「都路里」というお店があって、僕は誘われるまま(誰も誘っていない)店内に入っていきました。

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2年坂、3年坂から清水坂へ。もちろん、その上りついた先には、あの清水寺があります。14ぶり2回目、今日はいったい何を思うのでしょうか。中学生の頃の記憶は、意外と鮮明に残っていました。その記憶を丁寧に蘇らせるようにゆっくり境内の中を歩いていきます。そして、ありましたありました「音羽の滝」。たしか、中学生の時は、「学業成就」の水を飲んだ気がします。それが効いたのか効いていないのかは、今だよく分かりませんが…。記憶によると、滝に向かって右から、「学業成就」「延命長寿」「縁結び」だと思ったので、迷わず一番左の水を口にしました。「縁結び」といっても、いろいろな人との縁を大切にしたいという気持ちからです。自分の健康も大切ですが、自分が接する“人”というのは、心の健康を保つ上でも大切ですからね。で、今、インターネットで調べたら、滝の水の効果が、右から、「延命長寿」「縁結び」「学業成就」だと知って、驚いています。えっ、僕はまた、「学業成就」の水を飲んでしまったの。全然、僕の記憶は当てになりません…ガックリ。

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清水坂には多くのお店が立ち並んでいます。ここで、お世話になっている方々へのお土産を揃えます。そして、坂を五条の方へ下り、方広寺に向かいます。そう、あの「国家安康君臣豊楽」の鐘があるお寺です。この銘が「家康の名を2分して国安らかに豊臣を君として子孫繁栄を楽しむ」意味だとし、家康を怒らせ大阪冬の陣が起きるきっかけとなりました。ここに着いたのが4時ちょいと前。鐘を近くで見るのにはお金(100円)を払わないといけないのですが、それが4時までだったのでギリギリセーフです。寺務所のおばさんにお金を払い、寛永通宝につないだ南京錠の鍵を受け取り、鐘堂の中へ入りました。有名な銘文だけが、チョークでハイライトされています。こんな当て付けで、秀吉は家康により滅ぼされてしまうわけです。こうやって歴史は動くんですね。

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これで、京都駅に戻ろうと思ったのですが、近くに三十三間堂があったので、ここも同じく14年ぶり2回目ということで再訪をしてみました。とにかく、あの観音像の数には圧巻です。そんな多くの数の観音様を見て、僕は思いました。「これは仏様ではないんだ」と。三十三間堂に入って、偶然にも気付きました。ここへ入ることを導いてくれたことに本当に感謝しました。観音像に向かって祈りを捧げるのは、仏様に向かって祈るものではないんだ。この観音像は仏ではない、観音像は“自分自身”を投影しているんだ。この観音像は自分が祈ることを忘れないように作られた物なんだと。仏様に助けを請うために祈るんじゃない、自分が自分と向き合うために祈るんだと。祈りを捧げる対象は、自分自身の心であり、この自然世界全体であり、そして、身近にいる家族や友人なのである。あれだけの数の像を見て、やっと仏の持つ意味が少し分かった気がします。あの像は僕らの姿と世界をそのまま投影しているだけなのです。特殊なものでもなんでもない、この世にありふれた僕らのありのままの姿に過ぎないのです。そして、自分の成長を促すために、僕らは祈りを捧げて、生きる力とするのです。祈ることを忘れないように、彼らは僕らの目の前にいることを、心に深く刻んでおこうと思います。

そして、京都駅へ、もう歩きくたびれました。天気もよかったせいか、汗で身体中びっしょり。新幹線が混んでいたら、かなり恥ずかしいと思ったのですが、幸いそんなこともなく、静かに東京へ戻ってきました。でも、そういえば、僕がずっと背負っていたこのリュックサック、やけに重かったよな。たしかに、3日分の着替えのほか、ノートPCや学会の抄録集が2冊、あと発表用ポスターや資料などで見るからにパンパン状態でした。家に帰ってから、このリュックを体重計に載せてみると、なんとその重さは、8.5 Kg!! 衝撃の重さに、なんで余計なものを捨てなかったのかと後悔です…。抄録集なんて、CD-ROMがあればいらない訳だし…。いや、いい運動になりました。

とにかく、京都は最高によかったです。いまからでも、もう一度いってみたいし、学問するのも東京より良い環境なのではないかと思うのでした。

投稿者 はるお : 02:08 | コメント (114) | トラックバック

2006年07月19日

Natural Science

普通に「科学」と言ったとき、狭義的に「自然科学」を指すことがあります。僕が普段「科学」という言葉を使ったら、そういう意味である場合が多いでしょう。たぶん、「自然科学」は "natural science" の訳語であろうかと思います。確かにそのまま訳した言葉のようです。しかし、英語には、「自然科学」を指す言葉に、もう一つ、"physical science" というものがあります。日本語にしようと思ってもそれに対応する言葉が見つかりません。どうしても "physical science" も "natural science" 同様、「自然科学」と訳すしかないのです。

それぞれの言葉の意味を英英辞典(Merriam-Webster Dictionary)で引いてみると、次のように説明されています。

"natural science"
: any of the sciences (as physics, chemistry, or biology) that deal with matter, energy, and their interrelations and transformations or with objectively measurable phenomena

"physical science"
: any of the natural sciences (as physics, chemistry, and astronomy) that deal primarily with nonliving materials

後者の "physical science" は "natural science" の一部なんですね。だから、両方とも「自然科学」には変わりはないのです。その結果、この両者を分ける単語が日本語には存在しないようです。でも、この両者は同じ概念なのでしょうか、「自然科学」という一言で済ませてしまって果たしていいのでしょうか。日本人が「科学」をやる上で、大した問題を引き起こさないと考えられているかもしれません。

上述の辞書よると、"physical science" は主に生きていないものを対象に扱う学問として説明されています。そうなると、もし "natural science" が "physical science" と対極の意味を含むなら、"natural science" は生命を記述するのに必要な学問を指していることになります。例の中にも、"natural science" には "biology" が含まれているけれど、"physical science" には代わりに "astronomy" が入っています。生命を基準として、この二つの "science" を分けているように表面上は見えます。しかし、それが本質的な分け方なのかは疑問が残ります。僕としては、この分け方には少々不満を感じます。

僕的には、この二者の違いは、「法則性があるかどうか」にあるのではないかと思っています。分析して調べてみたらこういう結果でしたではなく、解析によって、ある種の法則性が導き出されたものが、"natural science" なのではないかと思っています。だから生命に関係するかどうかは2の次、数学だって、自然界を記述する方程式であれば、それは十分に "natural science" と呼ぶことができるのです。逆に、生命を扱っていても、ただ化石を発見しました、みたいなものは "physical science" に相当する、そのように分類されているのではないでしょうか。本当のところはどうか分かりません。しかし、少なくとも僕はそういう風に「自然科学」を分類したいのです。そして、僕は、"natural philosophy" の意思を継いだ "natural science" に関わっていければと願っています。

投稿者 はるお : 00:37 | コメント (94) | トラックバック

2006年07月12日

境界と境界の間

学術統合化研究で考えるべき問題について思索を巡らせていました。いきなり、とてつもなくいいアイデアが思いつくわけではないので、いつも同じ事を考えているような気もします。しかし、人間が考察することというのは、最終的には自分の興味があることに行き着きます。そして、統合化によりアプローチしたい問題、それは、どうしても根源的なものになってしまうのです。結局、「この世界がどのようにして生まれ」て「この世界はどのようにして終わるのか」という究極的な問いなのです。

本統合化プロジェクトの目的は、「知の収集や、体系化」などと、どこぞには書いてあるのですが、それはやはり目的ではありません。結局は、上記の世界観を理解するための手段に過ぎない。科学の目的とはそもそも手段なのかもしれません(そういう意味では、技術のなのか?「考える技術」みたいな)。そして、僕達が世界と呼ぶものは多々ありますが、僕の興味のある科学的対象として、「宇宙」や「生命」、そして「心」というものが相当すると思います。そして、それらの最初と最後を考え、なにかしらの答えを生み出す手段として統合化プロジェクトはあるべきだと思うのです。ってこんなこと誰も言わないから、教授にも話してないんですけれど…。

生命は個体として「心」を持っています。しかし、その個体の心は、死んでしまったら消失してしまう。しかも、生命の数だけ「心」があって、それらは時間と共に生成と消滅を繰り返している。そして、「生」と「死」を何遍も何遍も繰り返すのだけれども、全く同じものは決して誕生しない。でも、生命の歴史は淡々と流れ続けて行くわけです。その中で「心」について考察することは、「生」と「死」の境界を考察することであり、それは、まさしく、人の起源や行き先を考えることと同義な気がします。1つの「心」には始まりと終わりがあるのに、複数の「心」を捕まえれば、短い期間では終わりがない。ここに、「1」と「2以上」の根底的なギャップがあるわけです。その中で、どう「1」を考察し、科学的(じゃなくてもいいけど…)な答えを求めて行くことに多分の困難さを感じるのです。それは、もっとミクロな視点になっても同じで、「細胞」の一生を考察する難しさを反映しています。そして、突き詰めていけば、「物質」や「エネルギー」の生成と消滅とは何であるのかを投影しているのです。

その視点で考えれば、「宇宙」も同じです。「宇宙」の始まりと終わりを考察することの難しさは、「宇宙論」の発展を追っていけば分かります。そして、ホーキングが宇宙の特異点を消すために、虚時間を導入したことで、この宇宙は「生」と「死」を繰り返していることを示しました(自分流の解釈です)。「実時間」と「虚時間」が「生」と「死」に対応している、それは、概念が全く異なる相反なものの繰り返しです。そして、その境界性を議論することが、宇宙の始まりと終わりを考察することと同義になるのです。そして、宇宙というものは永遠に続いて行く。でも、その「宇宙」に全く同じものは存在せず、それぞれ個性を持っているものになります。

境界線の間を考察することは、主体が主体自身を考察することなのです。特に、宇宙に関しては、今住んでいる宇宙の外は観察できませんから、究極の主観なのかもしれません。僕らが知っている物理法則は、少なくとも、僕らの住んでいる宇宙でしか成り立たないでしょう(もちろん、成り立つ法則もある)。人の場合は、他人がいますから、それを材料として、それなりに客観的な事実を導き出して、医学に応用したりしています。しかし、自分自身を考察した結果は、少なくとも自分自身にしか成り立たない法則なのです。それ以上のものにはならない。だから、複数の知見を集めて本質を抽出するという作業が必要になります。むしろ、複数あるということは、そういうことができる強みを持っていることになるのです。(宇宙の場合は、もう一つの宇宙を観測して、僕らの宇宙と比較するということができない。)これまで、検証可能性が高いものに関しては、そのようにして、確固たる科学の定説として創り上げられてきました。しかし、物事が複雑で、そのような作業ができなかった問題が今だ残されています。本プロジェクトはそのような課題に対して、鋭いメスを入れるべきだと思うのです。あくまで理想論で、人間がその問題を解決できる知的能力があるのかは疑問ではあるのですが、そういう意識を持って仕事を進めて行くべきだと思っているわけです。こういう考え方に賛同してくれる人が少しでも身近にいることが僕の心の救いになるのかもしれません。とにかく、そのような方向性で、僕は科学と向き合っていこうと思っています。

投稿者 はるお : 07:32 | コメント (68) | トラックバック

2006年07月10日

引越はまた今度

7月中旬に予定していた引越は延期が確定しました。先月出していた退去届も撤回、引越業者にも延期を伝えました。まさか本当に延期になるとは予想だにしませんでした。理由は前の住人と大家がトラブっていることです。詳しいことは教えてくれないのですが、随分ともめているようです。もう前の住人は、そのマンションに住んでいないのですが、リフォームがされていません。内見もさせてもらえません。一体、どういうことなんでしょう、事情説明をして欲しいものです。しかし、個人情報になるから、お教えできないのだそうです。でも、せめて、いつになったら引越させてもらえるのか知らせて欲しいものですよね。目星がつかないと、行動計画が立てられませんから。結局、全てキャンセルですよ。今住んでいるところに契約が入らなくて本当に良かったと思います。不幸中の幸いです。

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2006年07月09日

東大の教養

NHKの「東大の教養」(再放送)を観ました。新入生歓迎シンポジウムの一環で、爆笑問題と東大教官が「教養とは何か」について議論したものです。僕なりの見解を言わせてもらえば、教養とは、「人類の文化的営み」そのもののように感じます。教養は身につけようと思っても身につきません。自らが文化的な創造物を作成しようとする時に必要となるものが教養なのです。自分が創ろうとしているものに必要だから、先人の叡智を学び始めるのです。型にハマったことしかしないのであれば、教養など必要ない、その中のルールさえ知っていれば、仕事はできてしまうのです。それは官僚の仕事振りだったり、専門バカと呼ばれるものだったりするのかもしれません。教養には境界線のない無限の広がりがあります。そして、自分の活動が次世代の教養として伝わっていくのが、文化的な進化なのではないでしょうか。これまでの世界を塗り替えてきた偉人達の歴史が教養の核です。学問の壁を壊したり創ったりするパワーこそ本来の教養に宿るのでしょう。僕もそういう「教養人」を目指して頑張っていこうと思います。

投稿者 はるお : 01:34 | コメント (98) | トラックバック

2006年07月05日

銀歯がほろり

右奥の銀歯が取れてしまいました。小学校6年生の時に治療したものだから、17年ですね。結構長く持ったほうなのかもしれません。それにしても、銀歯が取れた歯は汚いです、正直言って見たくありません。

思えば、僕はあまり虫歯に対して警戒心を持っている子供ではありませんでした。少しくらい歯を磨かなくても全然虫歯にならなかったんですね。そして、そんな無頓着な日々に青天の霹靂が…。一番奥に生えてきたばかりの下の永久歯が2本とも虫歯だと宣告されたのです。もちろん、痛みなどは全然ありません。学校の定期健診で虫歯と判定されたのです。その後、当時のやり方で、僕の2本の虫歯は治療されました。典型的な虫歯治療です。大きく削って、銀を埋める。今思えば、自然治癒したのではないかと疑っています。

でも、今となっては後の祭りです。銀歯が取れて、いかに大きく削られたか“まざまざ”と分かって、とても悔しいですが、もうどうにもなりません。再治療を受けに行くしかないのです。今度は金にでもしようか、歯科助手の妹に言わせると、金の方が長持ちするそうです。まぁ、金はイオン化傾向が低いので安定なのは容易に想像がつきます。もちろん、当然のごとく高いのでしょうが…。秘書さんがいい歯医者さんを知っていると以前に言っていたことがあったので、明日にでも聞いてみようかと思います。

投稿者 はるお : 01:28 | コメント (58) | トラックバック

2006年07月04日

テレビの取材

テレビ撮影をするのだそうな。僕がテレビに出るわけじゃないのだけど、学術統合化プロジェクトがピックアップされるらしい。それで今日、某TBSがカメラを持って取材に来ていました。それで、セミナー風景を取りたいというご要望により、擬似的な研究発表を行うことになりました。ご指名はM2の学生、僕らは彼の発表を聞いて、横槍を入れる係です。セミナー中、適当に質問してみたのだが、なぜかその風景をアップで撮られてしまう。まぁ、どうせ使われないだろうと緊張せず応対していました。発表している修士の彼は、よほど緊張していただろう。でも、今回は彼がヒーローですから、放送がとても楽しみです。

News23とかで使われるのかな~と期待していたのだが、そんなメジャーなものではありませんでした。なんかBS-i (BSデジタルの6チャンネル)とかいう局らしい。番組名は「榊原・嶌のグローバルナビ」というのだそうです。放送は今週末なので、もし視聴可能な方がいたらご覧くださいませ。ちなみに僕は見れません。アナログ放送ならもっと宣伝しようかと思ったんですけどね。

投稿者 はるお : 00:24 | コメント (135) | トラックバック

2006年07月03日

動けるの?

南流山に今月引っ越す予定なのですが、雲行きが怪しくなってきました。もうすでに、前の住人の方は退去しているはずなのですが、なんだが管理人ともめているようなのです。学会前の7月中旬に引っ越そうと思っているのですが、果たして間に合うのでしょうか。まだリフォームを始めてないそうなので、かなり心配です。もう僕は今住んでいるアパートの退去報告をしているので、このまま話が平行線になり、暮らすところが一時的になくなってしまったらどうしようかと…。そしたら、また柏ロッジにでもお世話になるしかありませんが、荷物の問題もあるから微妙です。本当に物事はうまく進みませんね。自分では想像もつかないことが起こります。それでも、全ての事象を受け入れていくしかないわけですが…。なんか今週末は、いろいろあって疲れました…。

投稿者 はるお : 02:29 | コメント (94) | トラックバック