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2006年02月28日

ニューロインフォマティクス事始め

研究室のセミナーをサボって如水会館へ。理化学研究所主催のINCF日本ノード設立記念講演を聴きに行くためだ。テーマは「ニューロインフォマティクス」、神経科学の分野で得られた知見を体系的な情報としてまとめ、新たな研究の起爆剤とするための支援ツールと考えていいだろう。これまでに表出してこない隠れた神経生理学的発見を見出すために、実験データをみんなが使いやすいようなプラットフォームに乗せ、情報を統合しようという試みである。

数年前にゲノムやタンパク質のコード情報を対象にした「バイオインフォマティクス」という言葉が流行ったが、簡単に言えば、その神経科学版ということになる。しかし、神経活動情報の質は「バイオインフォマティクス」ほど容易に扱えるものではない。いわゆる遺伝子情報は「塩基」というもので、もともと符号化されているから情報として扱いやすく、データベースの構築も爆発的に進んだ。だが、神経活動が持つ情報はイオン電流値であったり、活動電位の動態であったり、生化学的なアッセイであったり、数理モデルであったりして、莫大で異種類な情報がまさに散乱している状態であると考えてよい。これらの中から比較的似ている分野同士でプラットフォームを整備し、実験データを研究者間で共有することで、一つのデータから多くの情報を引き出すことができるのではないか、というのが「ニューロインフォマティクス」のコンセプトである。

結局みんなが考えているのは、実験科学者と理論科学者の接点をどうやって設けるかということになる。最終的に脳をシステムとして理解するには、ミクロもマクロも同じ土俵に引っ張り出してくるしかないのだ。それらは相互に影響しあっているものであり、因果関係もかなり複雑なものになっているはずである。あるときはその因果関係が反転することだって考えられる。現在の研究では相関関係を記述するのに精一杯な状況であるが、脳を正しく理解するためには、多くの因果律を見出していかなければ、どうにも始まらない。そのキッカケづくりの要素としての意味合いも「ニューロインフォマティクス」には含まれているだろう。

はっきり言って、そう簡単にこの分野が進展するとは思えない。それほど難しいことなのだ。だから誰もやろうとしない、誰も音頭を取ろうとしないのが現実だった。そういう意味で、理研の臼井支朗先生の勇気には感嘆している。彼の勇気に続く若者がこれからもわんさか出てきて、最終的にクオリアの問題を解いてしまう天才が出てくることを待ち望んでいる。僕も彼の勇気を見習って、ドンドン自分が良いと思うものを表現していこうと思う。

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2006年02月27日

仮説に過ぎない

竹内薫著「99.9%は仮説」読了。普段から彼の話を聞いているせいか、僕にとって仮説で物事を考えることは常識になってしまっている。そういう意味では、この本を読んですっきり心地よい気持ちになれるのは危険なことなのかもしれない。物事について仮説を立てて考えないということができなくなっているわけだから。つまり、常に何かしらいろんなものに疑いをかけながら生きているということになるわけで…。

しかし、最後に彼が問いかけたように、「物事は全て仮説にしか過ぎないのか」ということに対しても解答は得られないのである。もし、これに答えられたら、この本のタイトルは「100%仮説」になってしまうわけだ。最終的に人類は真理に到達することができない宿命であり、いわゆる「絶対」という概念は存在しないのである。それを楽しめるかどうかが生き方の質を左右するのではないだろうか。

そうは言っても、人間というのは何か信じられるものがないと生きてはいけない精神的弱者である。仕事をするにしても信念を持って働くのとそうでないのとでは、結果に雲泥の差が出ることだろう。多くの仮説を持つということは、「邪念」を持つこととほぼ同義であるわけで、それだけ多くの迷いを生じさせるものである。人間として豊かな経験ができても、経済的な成功を達成できるとは限らない場合だってある。ここに社会を生き抜いていかなければならない人間の心に歪みが生じる所以があるのだろう。最近の事件を振り返ってみれば痛感できることばかりである。視野を狭くし、自分の思うがままにただひたすら突き進むことが、この社会での成功の近道になることは、なんとも皮肉のようにも映る。でも、人間はそういう行動に一種の快楽を感じるようにできているのではないだろうか。

人間を含めあらゆる動物には真実が何であるかを知られないように、神が僕らを設計しているようにも感じる。真実を知られたらたまらんと神は思っているのかもしれない。確かに自分が神様で、人間を作った張本人だったとしたら、自分の存在を知られないように仕掛けを施すだろう。兎にも角にも、生命の起源について何にもわかっていない(いつか解明されるのかどうかも分からない)わけだから、宗教だって科学だって共存してよい。また、これらが相容れないものでもないので、自分の都合のよいように解釈し、より豊かな人生が送れればいいはずである。宗教や科学が人を殺める理由や道具にならないことを祈りながら…。確かになんで日本の義務教育には哲学(史)の時間がないのだろう、今一番必要な教育なのではないのだろうか。

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2006年02月26日

高校暗黒時代

高校の同窓会の案内が届いた。案内を見る限り、クラス単位の同窓会ではなく、その学年全体で会を行うらしい。普通に全員来たら、300人以上になるわけだが、みんなどうなっているだろう。高校を卒業してから11年が経つが、高校の友達と会う機会は皆無であったといってよい。せっかくの案内なので、行ってみるのも悪くないかなとも思っているが、気が進まないのが本心だ。

実はあまり高校時代にいい思い出がない。僕の高校時代は、前後に類を見ない程の精神的暗黒時代だったように思える。なにがやりたいという訳でもなく、勉強も程々にしかやらず、部活も友達関係がうまくいかず、とり立てて意欲的な活動をしているとは言えなかった。学校で話すような友達はいたにはいたが、関係が大きく発展することはなく、卒業後にコンタクトをとるようなこともほとんどしなかった。高校生といったら、いわゆる思春期の代名詞で、多感な時期だと思うのだが、女の子に特別興味を持つこともなかったし、没頭できる趣味もなかった。だから、高校時代に何をしていたのかと聞かれても、何もしていなかったと答えるしかない、それほど僕にとって16~18歳は空白な時間なのだ。

だから、同窓会に行っても何を話していいのか分からない、というよりか僕と話してくれる人がいるのかと考えてしまう。もしかしたら、それなりの会話はすることができるのかもしれないが、過去の話をして盛り上がるということは絶対に起こりえないだろう。逆に自分の暗い過去が現実にぶり返してきそうで恐怖感さえ覚える。過去は過去、過去は未来を作る材料に過ぎないのだ。同窓会に行くことで、自分の未来にどうプラスになるのか、それは行ってみないと分からないのだが、いまのところ気が滅入っている。返事の締切が来月の中旬なので、もう少し頭を寝かしてみよう。何か良い発想の転換が起こるかもしれないし。でもこの恐怖感を拭い去るには相当なエネルギーが必要であることは確かなように思う。

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2006年02月25日

ニュートンの13球問題

金属の結晶構造を考えたときに、最密充填を考えると面心立方格子か六方最密格子になる。このとき一つの球(原子核)に隣接する球の数は12個なのか。最初は8個ではないかと考えていたが、今考え直したらやっぱり12個でいい気がする。ということは、一つの球に接触できる最大数が接触可能となったとき、その結晶は最密充填構造になるということなのだろうか。

2次元、8次元、24次元の場合は、全ての隣接する球は相互に接触し、その間に隙間がないらしい。もちろん、球の接触であるから、隙間ができないわけではないのだが(丸みがあるから)、隣接点は必ず存在することになる。分かりやすい2次元の場合を考えると、接触点同士を直線で結びつける時、正六角形の格子構造が見えてくる。そこから、この格子構造の密度を求めてみると、約90.7%であった。ちなみに3次元の最密充填構造では、約74.0%である。やはり、隣接する球同士の間に隙間ができる分、その密度はかなり低い値になることが分かる。ということは、8次元や24次元の最密構造での密度は結構高いのではないかと期待する。と思って、ググッたらなんかそうでもないらしい。やはり頭の中で8次元空間を想像するのは僕には不可能なようだ。

4次元以上の空間はひも理論によると存在するのだが、想像を逸脱する世界だ。そこでは数学を使って現象を定量的に考察することしか手段がない。実際、ひも理論に出てくる数学はかなり難解で理解に苦しむらしい。しかし、それが世界を成り立たせている基礎原理であるかもしれないから、多くの物理学者が懸命になって、その数学を解いているのだろう。今のところ、超ひも理論がループ量子重力理論と並んで統一理論の候補とされている。そうじゃなければ、物理学者の多くが超ひも理論の難解な数学に果敢に挑むこともなくなっていくのだろう。それが数学者と物理学者の違いということらしい。僕はやっぱり物理学者的思考なんだろう、生物を相手にしているのだから当たり前といえば、当たり前だが…。

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2006年02月24日

環境が与えるもの

自分の行動というのは、自分の意識下で、自らが決定し、意思を持って自由に行っているように見える。最終的には自分で下した決断であるから、それは自分の意思を反映しているように感じる。自分で決めたことなのだから、全ては自分に責任があるように思うのは自然だ。犯罪者だって、犯罪を行った自分自身に責任があるから、その罪を償うために罰則が与えられる。自分が犯行を決断したという行為が最終的に悪とみなされるのだ。自分が持っている意思は自分で自由に決めることができるのにも関わらず、悪行をはたらいたから、犯罪者とされるのである。そうでなければ、刑事責任は問えないのが現行の法律の流れだろう。

でも本当は自分の意思なんて知らず知らずのうちに、周囲から多大な影響を受けていることが多い。自分でそう思っていることは、誰かからそう思わされている可能性だってある。自分では誰かに操られているはずなんてないと思っていても、実は騙されていることに気付いていないだけなのだ。人間の意志はたとえどんなに強いと思っていても、それほど強いものではないようだ。自分を取り巻く人間や環境が自分の心の動きを知らず知らずのうちに支配していると考えるのが妥当であろう。そういう心の性質をそういうものだと、まずは認識しなければならない。そこから自分の次に起こすべき行動を考えることができるようになる。

すなわち、自分の心が豊かな状態であることを保つには、心そのものだけではなく周りの環境にも細心の注意を払うべきだ。自分がこうしたいなら、こういう環境に身を移そうとか、ああなりたくないなら、このままここに居座ってはダメだ、っとか常に身の回りの状況を動かすことで、自分の心の状態を清潔にしておくことが大切である。自分にとって最適な場所であるなら、問題は起きにくいのかもしれないが、自分にとって好ましくない環境に身を置いていたならば、気付かぬうちにあるステレオタイプ的な思考に陥ってしまうことだろう。そういう状態に自分がなっていることなど他人から指摘されないと本当に分からない。それくらい人間というのは弱いものなのだ

犯罪者は犯罪を起こしてしまうような環境に身を置いていたから罪を犯してしまうのだ。犯罪を起こさせないような社会づくりが犯罪を抑制するための最大の予防策であろう。人間にいくら言っても分からないものは分からないのだ。環境が変われば現代だって生きやすくなる、会社だって、学校だって楽しいものになる。そうすれば活力のある人間社会が生まれて、本来人間の持つ生産性だって上がっていくものだろう。そういう意味で社会のハード面を適切に改良していく必要性を感じる。心が自然と豊かになる環境づくりを目指して僕がやれることはたくさんありそうだ。

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2006年02月23日

不思議がいっぱい

新宿駅の一つ手前、東新宿。都営地下鉄大江戸線の路線なのに、地上に大きな駅を構えている。ふとその駅を横目で見ると、走っている車両は山手線ではないか。しかも、その車両は二回りほど大きい。本当にこんな電車が路面を走るのだろうか。僕は深く考えるのを止めて、そのまま西の方へ歩いていく。住宅街に囲まれた角度の急な坂道を登っていくと、丘の向こうに都庁が見えた。都庁の後ろには風景がない。よく見ると都庁は空に浮いているようだが、その空は青ではなく真っ白だった。

なんか頭の中が「天空の城ラピュタ」状態なのか。都庁の中に入る前に夢が覚めてしまったので、内部の情報は得られなかった。高度な文明が栄えていたら笑えたのだが。「ラピュタ」のクライマックスは謎でいっぱいだった記憶がある。最後にシータとパズーが唱えた禁断の呪文「バルス」、口にするだけでラピュタの崩壊が発動するというのに、シータはこの呪文をどうやってパズーに教えたのか。でも、やっぱり名作は名作。

世の中不思議なことだらけだ。どこまでが本当でどこまでがウソなのかに境界線を引くのは困難だ、というより不可能だ。夢だろうが現実だろうが自分を形作っているものがある。主観をどこまで傍観できるか、そんなスタイルで自分の感性を楽しみながら、科学に関わっていきたい。こんな考え方をした科学者は受け入れられるのだろうか、心配ではある。

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2006年02月22日

Have a break, have a KitKat!!

チョコレートスナックの代名詞、KitKat。帰宅途中コンビニに立ち寄ると、Kitkatにカエラが寄り添っている。おぉ、ついに出ましたな、KitKatレーベルによるCD販売。たった315円で、お菓子とCDが一緒についてくる。この商品に手が伸びないはずもなく、カエラの新曲「Circle」を聴くべく速攻で購入。KitKatのマーケティングに負けていることは重々承知しているが、人間は抑制できない行動というものがあるのだ。早速家で曲を聴いてみた。今までにない幻想的な曲調が心地よいかも、また違った声質が彼女のポテンシャルの高さを窺わせる。英詞が半分以上を占めているので、ディクテーションしてみた。

What can I do for you?
That's for me.
I'm singing a roundelay to you.
(*)It's like a circle.
Round and round.
Meeting-laughing-parting-crying a life.

Life always has its ups and down(s).
(* repeat)

It's always gonna be this way.
This is a life.
We got (have to don't have) to get up and down.(リスニング不能)
This is a life.
(* repeat)

商品には歌詞が一部しか記載されておらず、後半は答え合わせができなかった。ウェブにもまだ公開されていないようなので、最後の括弧で括った部分は何て言っているのかかなり不鮮明だ。分からないものというのは何度聴いても分からない。もう後は答えの発表を待つしかないようだ。
kitkatomotekitkatura

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2006年02月21日

セルアセンブリと相関関係から見えるもの

今年度最後の研究報告、この研究室での最後の報告になるかはまだ未定だ。久々に気分を害するような発言を後輩が発した。なんか完全に図に乗っているぞ、こいつ。自分ならこうするのに、というような自己中心的な後ろ向きな意見を連発。研究にだって、それぞれ自分のスタイルがある。それを否定したって、研究の発展につながるはずがない。こういう場で、研究報告をするのは、発表者がしている研究をいかに昇華させるかを議論するのだ。自分本位の一方的な感情をぶつけられても困る。お前は一体何様なんだ。さすがに頭に来たが、ここでキレる訳にはいかないから、適当に応えてあしらった。まぁ、科学の発展にはマッドサイエンティストは必要なんだろうからいいんだけど、やっぱり直接関わるのはいい気がしない。早くこの研究室を出て行きたいという想いが今日いっそう深まってしまった。

午後に京都大学心理学教室の櫻井芳雄先生のセミナーがあったので、勇んで聞きにいく。前に彼の話を聴いたことがあるのだが、とても情熱的でユーモアがあってかなり面白い先生なのだ。それでいて多くの人の興味をそそる研究をしているので、もうなんか嬉しくなってしまう。彼はラットやサルを使って脳内の情報表現をセルアセンブリの概念を使って説明しようとしているヘブ一派だ(最近、ヘブが50年以上前に書いた「The organization of behavior」が復刊した)。マルチ電極を動物の脳内に組み込み、近傍同士にある神経細胞の発火パターンを独立成分分析で抽出し、タスクとの相関を取っているのだ。特に電極の作成技術に関しては相当なもののように思える。

確かに、ヘブの学習則を実験的に検証できることは有意義な研究であろう。話を聞いていても面白いことこの上ない(池谷さんの研究もまだこの域を脱していない、っていうか彼もこのセミナーを聴きに来ていた)。しかし、50年以上前に提唱されたこの理論はほぼ確かであることは分かっているし(もちろん仮説だけれど)、ここからとある情報表現が抽出できることは必然と言えば必然であろう。その必然性を躍起になって確かめているという風にも映る。このままでは彼はセルアセンブリの枠から外に飛び出すことはできない。今はこの理論を踏まえて Brain-Machine Interface の研究に着手している。

この理論の問題は神経が発火するかしないかというデジタル的な現象を踏襲しているところにある。もちろん、神経発火は「全か無かの法則」と呼ばれるように、all-or-none の性質があるのだが、その神経発火の閾値を規定している膜電位はアナログである。となると、たとえ同じ刺激を受けたとしても、同じ神経細胞が発火するかどうかはわからないのだ。そこにアナログの面白さがある。たとえば、今日、とある映画を見て思ったことと、しばらくしてから、また同じ映画を見たときの感想は違うときがある。つまり、入力が同じでも、その受け手の状態が異なるならば、同じ情報をコードしているとは言えなくなるのだ。そういうことを明らかにできる研究が可能になれば、ヘブの理論を一歩抜け出した新しい理論が作れるのかもしれない。そういう疑問を突破口にして、心の理論に迫りたいと思う。

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2006年02月20日

コミュニケーションコンプレックス

バーバルコミュニケーションには、かなりのコンプレックスを持っている。自分の思いを歯切れ良く相手に伝えることができる人には羨望の眼差しを送ってしまう。思うより先に口が出るという現象があるらしいが、僕には考えられない。言葉が出るのにしばらく考えてしまうことが多い。話というのは内容の濃さだけではなく、そのテンポも心地よさを決める要因の一つであろう。音の流れを楽しむことも会話の醍醐味のはずである。そして、会話をしたという事実だけが重要であり、内容などほとんど記憶に残らない場合もある。情報の交換という役割よりも、感情の共有という要素がコミュニケーションには色濃く反映されているように思う。

薬局の事務の人に「水谷君って、人当たりいいよね~」と言われて、かなりビックリした。話すことに一種のコンプレックスを持っている人間が、人当たりがいいなどと思っているわけがない。人当たりって何なんだろう。薬局の人はみんな気さくだから、家族みたいな口調に毛が生えたような話し方で接しているのがいいのだろうか。でも、患者さんにはえらく気を使って話していて、実は何を話していいのか心中困っている。面白いことも思いつかないから、淡々と薬の説明をしたり、体調を聞いたりするのが精一杯だ。内容なんて関係ないから、間が空かないように何でも話せばいいのに、それができない。いつも同じ薬をもらっていく人は薬の説明なんてする必要が無いわけだから、沈黙が続く可能性が高い。その乗り切り方が今も全然つかめていないのだ。

テレビに出ている芸人ってホントにすごいと思う。よくあんなに面白いことを次から次へと繰り出せるなと。やはり、常に何か面白いことを言ってやろうと考えているだろうけど、あれだけ反射的に笑いで切り返せるというのは彼らの能力であろう。で、結局人当たりがいいってどういう感覚だったんだろう、その根拠を聞く前に患者さんが来てしまい、聞きそびれてしまった。会話の内容とは関係ないのは確かなわけだが…。

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2006年02月18日

「構造派」建築

建築物はどうあるべきか。日本は地震大国であるから、理論に則った堅固な構造を前提とし、その強さを保持するために余計な装飾はしない。そういう考え方を持った人たちを「構造派」と呼び、見た目の美しさを考慮に入れるべきではないという見解を示していた。それに対して、自分の内なる思いを表現して、建築を芸術作品として考えようとしたのが、1920年に結成された分離派であった。分離派の中には、どう考えても建築物として成立しないデザインを施した輩もいたが、構造と美術を分けて建築物を考える手法が長く続いたのは確かだ。これらの派閥の対立が、後の建築家たちに多大な影響を与えたことは言うまでもない。

構造派の一人であった佐藤利器が建築した代表的な建築物に日本橋丸善がある。第一に構造を考え、必要のない装飾は一切省く計画だったが、施工主の懇願により若干見栄えが考慮されたらしい。しかし、この建物は1923年に発生した関東大震災で敢え無く焼失した。佐藤は施工主の意見を聞かず、自分の理論に忠実に従っていれば、震災にも耐えられただろうと回顧している。自分の考えを建物に表現するという欲望を徹底的に抑制し、構造理論に忠実に従うのことが、まさに「構造派」の理念であった。ただし、その構造から自然と生まれてくる美しさを否定するものではない。

そんな丸善で竹内さんの新刊「99・9%は仮説」の講演・サイン会が3月20日に開かれる。売れ行きも快調のようなので、この本が読めることを楽しみにしている。しばらく我慢して、生協では買わないでおこう。竹内氏会心の書ということで、本屋で見かけたら手にとってみよう!

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2006年02月17日

人生ギャンブル

第一希望の研究室訪問、さすがに初めて教授に会うときは緊張する。つくばエスクプレスに乗ったのも初めてだが、乗り心地は全く覚えていない。面接で何を話そうか必死になって考えていた。バスに乗り換えて、構内へ。広大な敷地に建てられた真新しいキャンパスが僕を威圧する。空を覆う厚い雲が閉塞的な自らの心を表しているようだ。

「総合研究棟」と呼ばれる建物の6階が、教授の居室だ。秘書さんに挨拶して、いざ対面となる。緊張な面持ちで、とりあえず自己紹介。事前にメールで伝えてあるのだが、簡潔に自分のやってきた仕事の話などをする。向こうからは現在進行中のプロジェクトの紹介、そして、どのような人材を求めているかの説明を受けた。いろいろ話しているうちに教授との共通点が見えてきた。最終的に生命科学研究を推進するためには、トップダウン的な理論研究とボトムアップ的な実験の融合が必要であると。固定したフレームにとらわれないで、そのフレーム間が相互に変換可能な形で知を創発できれば、大きな学問的発展につながる。彼らはそういうスタンスでこのプロジェクトの遂行に当たっていることがヒシヒシ伝わってきた。

もちろん一抹の不安もある。最終的な知的産物が既存研究のまとめに過ぎないものになってしまったら、新しい学問などという言葉は水の泡と消える。そこから、何か得体の知れないものが生まれてくることを望んではいるが、実体がどのようなものになるのか全く想像がつかない。そうなれば、自分は何をやっているのだ、と相手から攻められても仕方がないであろう。僕が選ぼうとしている道は、いわゆる出世コースではない。自分が面白いと思ったことに無心で飛び込んで、失敗してしまったらそれはそれでいいと思う。そんな無茶な考えで研究していた奴もいたのだと笑われても、自分としては満足できる。でも、もし事がうまくいけば、科学界に風穴を開ける仕事ができるかもしれない。それに賭けるしかないのだ。

僕はギャンブルはやらないが、それは自分の人生がギャンブルだからである。もうそのドキドキ感でお腹が一杯なのだ。だからといって、あまり成功とか失敗とかは意識しない。もちろん成功することは快感であるが、失敗はそれを常に支えているからだ。人生楽しまなければ意味がない!その代償として、それなりに凹むことも多いけど、それは成功への推進力となる。自分の安定を顧みず、常に自分の可能性に賭けたい。それでダメでも後悔は全くしないだろう。

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2006年02月15日

落ち着いて考えよう

うちの研究室の技官の女性が、聴覚入力による神経発達に関して研究をしようとしているのだが、なかなか問題が多くて困っている。これまでは内耳破壊のような外科的な手術を用いて、ネズミの聴覚を遮断し、神経伝達に対する影響を見ていたのだが、結果的には失敗した。なぜかというと、外科的な手術により耳は聞こえなくなったとしても、周囲に炎症が広がり、最終的には聴覚神経を刺激していることになるのだ。つまり、音的な神経入力を遮断したつもりでいて、実は神経を過度に興奮させていたことになる。結局、聴覚神経系の活動依存的な機能変化を追うことはこの実験ではできなかった。

誰が言ったか知らないが、この実験をカナマイシンを使ってやったらどうかと言われ本気にしている。カナマイシンはストレプトマイシンなどと同じアミノグリコシド系の抗生物質で、副作用として難聴がある。ストマイツンボという言葉が昔はあったようだが、さすがに今は禁句であろう。で、カナマイシンの過剰投与により、耳の蝸牛にある有毛細胞を殺し、耳を聞こえなくしたらどうかというのだ。さすがにこのアイデアには衝撃を受けた。本当にこの方法で、聴覚神経の活動変化による発達変化が見れると思ったのだろうか。そもそもアミノグリコシド系の副作用はミトコンドリアDNAの違いにより個体差があり、全ての動物が難聴になるわけではない。しかも腎毒性があるため、その影響を受けた生理的な個体の変化は無視できないだろう。さすがに計画が乱暴だ、デフマウスを使うなどの代替手段を用いるべきだろう。音響のコントロールが難しいのであればそれが最善策であるように思う。デフマウスの情報はイギリスのサンガーセンターに豊富に蓄えられているようだし。

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2006年02月14日

好感触が続く

早速、今週の木曜日に希望している研究室に訪問することになった。メールをしたらすぐ返事が来たので、今のところ感触はいい。その日はセミナーがあるらしいので、外部からの道場破り的な参戦だ。そのセミナーで存在感をアピールして、うまく就職に結び付けたい。目立ちすぎないように、スマートな質問を繰り出せる努力を惜しむべきではないだろう。議論が発展しそうな綻びを突きつつ、その仕事の重要性に言及できるようにしたい。

女子スノーボードハーフパイプ、女子といえどもエアが高い!ナインハンドレッドとか言っているから900度、つまり2回転半しているということか。なんでアメリカはスノーボード強いんだろう、優勝した Teter の滑りは圧巻であった。あと、右側と左側でパイプの角度が違うというのは今日初めて知った。今井メロが転倒したのは、どちらも右側で角度が浅く、外側に飛び出す方向になるという。漠然と見ているだけだと、そんな違いに全く気付かない。選手たちはその小さな違いの中の一瞬の動作で勝負をしているのだから、まさに神業である。やはり、"God is in the details" なんだな。

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2006年02月13日

推敲しすぎ

就職に必要な書類を書いていたら朝になってしまった。自分を売り出す文章というのは中々難しい。適切な言葉を使っているか何度も確認してしまうし、いい表現がすぐには出てこないことがある。せっかく教授のGOサインが出たんだから、何としてでも次の職を手に入れたいが、自分の書いた文章が下手では好感度は得られないだろう。いまさら自分のやってきたことは覆らないけど、文章一つで相手の気分は変わるものだと思うので、結構慎重に筆を進めている。でも、ちょっと時間をかけすぎかもしれないな。今度はむこうの教授と戦う番だ。果たして結果はいかに、今月末くらいに決まってくれるといいのだが…。

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2006年02月12日

五輪の持つ意味

トリノ冬季五輪が始まる。時差の関係上、競技の開催が日本時間では深夜になる。いけない、これは見てしまう…、というより今見てる。

オリンピックには独特の緊張感がある。選手が感じているその緊張が画面を伝わってくる。実際は肌で感じていないのに、肌で感じてしまう臨場感にもう釘付けである。同じスポーツ観戦でも、オリンピックやワールドカップは特別だ。それは選手にとってやはり特別なイベントだからだろう。4年にたった1回しか挑戦することができない演技、その1回でこれまでの自分を出し切り、結果を呼び込まなければならない。不安の中に足元が竦(すく)みながらも、大胆な演技につながる勇気を振り絞らなければならない。最終的には、そのバランスの取れた選手が最大の結果をもたらすのだろう。ただ、競技に集中している選手の姿に僕らは純粋に感動するのであった。

対象が何であれ、人が全力を出す一瞬は美しい。一瞬の栄光が永遠に輝き続ける。全力を出そうと思える目標を持つことで、きっと人生が美しいものになるのだ。それを眼前のものとして僕らも体現できるのがオリンピックゲームなのかもしれない。

愛子ちゃん、5位入賞おめでとう!!メダルは取れなかったけど、いい滑りだった!

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2006年02月11日

異端な量子ポテンシャル

やはり実在論は確実ではないのか。量子力学を実在論的に解釈したボームの量子ポテンシャルの概念さえ確率の呪縛から逃れることはできない。量子の辿った経路を論ずることはできるが、どの経路に量子が存在するのかは決まらないのだ。残念ながら実在論的な考え方は、実証論の前に一歩及ばずであった。少し残念なような気もするが、どのような考え方でも物事を捉えようとする試み自体が大切だ。観察する視点を多く持つことは、洞察の幅を広げることになるので、学問の理解につながる。いろんな考え方に接して、自分の好奇心を風化させないようにしなければならないな。

4月からの就職に先立ち、教授に推薦状を書いてもらえるよう頼んだ。拒否されたらどうしようかと緊張したが、意外にあっさりOKしてくれて胸を撫でおろした。最終的に選考に残るかどうかは分からないけど、教授の意見書は就職にかなり左右すると思われるので、かなり重要な書類になる。後は自分の抱負をまとめて、来週には研究室を訪問する予定だ。最終的にはポジションを獲得するための熾烈な競争になるのだが、できる限りのことはやって、あとは運を味方につけるしかない。

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2006年02月10日

愚問

仙台の友達が上京したのでお昼を学内の食堂で一緒に食べる。彼は築地にある国立の研究センターへ就職のため、面接を受けに来たのだ。そのインタビューが午前中に終わってしまったので、帰りがてら僕らの大学に立ち寄った。

面接で聞かれたアッと驚く質問は、「その研究がうまくいかなかったらどうするんだ」という類のものだった。これは実験科学者がする質問ではない。研究がうまくいく確率が100%になることは絶対にありえないからだ。3年頑張ったって結果が出ないことは十分あるし、大きな仕事をしようと思えばなおさらのことだ。もちろん、それなりの根拠を持った仮説の上に立って実験していき、ある程度の結果は出ると予想した上で実験計画は立てる。しかし、それが万事思い通りにいくと考えるのは自然を無礼(なめ)ているとしか考えられない。自然と対峙するということがどういうことなのか、患者と常に向き合っている医者なら分かると思うのだが…。医療さえも身体性を飛び越え、脳内現象と化していないか、一抹の不安を抱いた。どんなに研究の概念化が進んでも、目の前にある自然を見つめる純粋な視線を忘れてはならない。その無垢な姿勢にこそ、真実が与えられるのだ。彼の研究の成功を祈る。

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2006年02月09日

心の案内人

3月に刊行予定の小説の内容を校閲させてもらった。いわゆる脳科学の内容を含むものであるということで、学術的な間違いがないかを指摘するためだ。実際の小説は、とても快活にストーリが進んで行くものだったので、厳密なことが気にならなければ結構トントンと読めてしまう。感覚に委ねて読んでしまえば、1時間もかからずに読了できるのかもしれないが、コメントを考えながらとなると、そう簡単にはいかない。

特に意識や心がテーマとなると議論が飛躍してしまう可能性があるので、慎重に今言えることを書き出すことに注意した。また、人間の心は知性とも関連してくるので、知性とは何かという焦点も大切にしなければならない。人間の知性を問題解決能力などに照らし合わせ、行動の計画や意思決定にどこまで踏み込めるかが重要だろう。しかし、小説の流れを壊したくないから、できる限り生かせる原文は生かして欲しい方向性でコメントさせてもらった。

早く書店に並ぶ様子が見たい。どんな装丁になるのか楽しみである。

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2006年02月08日

10年分の借金

奨学金が今年の3月で満期になる。博士課程で借入した金額だけで 5,712,000円、大学からの通算になると実は1000万円を超えている。これだけの額になると、たとえ奨学金といえど保証人にはなりたくないというのが本音ではないか。

自分の父親が連帯保証人になるわけだが、それ以外にも保証人として血族を一人立てなければならない。そこで叔父や叔母に保証人の依頼をしなければならないのである。学校の先生になることができれば奨学金を返す義務はなくなるから、という言い訳はできるのだけど、なんとも頼みにくい。が、それでも返還誓約書を大学に提出しなければならないので、最終的には叔父に保証人になってもらったのだ。印鑑証明などの書類も必要なので、とても煩わしい作業であったのだが、協力してくれて本当に助かった。

何で日本の奨学金制度は返済義務があるのだ。学生を積極的に支援して、十分な教育を受けることができる基盤はほとんど整備されていない。昨今はその制度自体も徐々に脆弱化して行っており、免除職という概念もなくなった。日本は人を育てるためにお金を出さない。ものづくりと言ったって、ものをつくるのは最終的には人だぞ。人にこそ充実した資金を補填すべきではないのか。お金の使い方を役人たちに教えてあげる人はいないのだろうか…。

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2006年02月07日

冷菓と生理学

来月群馬で行われる日本生理学会の一般演題日程が決まった。最近は演題数の関係でポスター発表が多いのだが、今回はオーラルでのプレゼンになりそうだ。生理学会は生化学会や分子生物学会などに比べて大分こじんまりしているので、オーラルに当たる確率が高い。たぶん参加者の4分の1は口頭で発表することになる。

最近国内の学会も国際化が進んできて、オーラル発表は原則的に英語になった。つまり、僕も例に漏れず、英語で自分の研究内容を発表することになる。ハッキリ言って英語でちゃんと受け答えできる自信など全くないのだが、こういう時が頑張るチャンス!しっかりしたプレゼンテーションが英語でできるよう練習しなくてはならない。結局は場数を踏むことでしか英語など上達しないのだ。切羽詰って必死こいて英語で喋る、こんな経験が次の進むべき道を教えてくれるはずだ。

僕が参加する学会として他に神経科学学会があるが、やはり生理学の方が好きだ。学会の規模自体は神経科学のほうが倍以上に大きくなっているが、生体をシステムとして統合的に観察する生理学の志は一生心に留まり続けるだろう。たとえ将来どんな進路に進んでも、生理学会だけは脱退しない。僕はこれからも”生(せい)の理(ことわり)”について考え続けていくのであろう。

学校を出ると、霙(みぞれ)が降っていた。明け方にかけて関東でも積雪になるという。そんな冷たい空気を吸うと、なぜかアイスが食べたくなった。帰宅途中にあるコンビニで安価な6個入りのパナップを手に入れた。

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2006年02月06日

個人の自由

相手にメッセージを伝えるということはどんな分野でも難しい。講義のようなこれまでに検証がなされて十分理解がなされているものでもそうなのに、なおさら自分の抽象的な思いを伝えることは、どんなに言葉を駆使しても正確に伝わるものではない。

僕が10年前に受けたセンター試験のことを振り返っても、そのことを忠実に表している結果がある。センター試験の国語は半分が現代文であるが、現代文は論説文と小説に分かれる。論説文は著者の主義・主張をできるだけ正確に伝えようとしている努力があるため、限りなく統一した見解が得られる場合が多い。変に読み違いがなければ、問題の解答もさほど難しく考えなくても、正解に至ることが可能である。しかし、小説はどうだ。たしかに情景や心情を伝えようと、著者はその変化を細かく描写するのだが、主人公がどう思っているかなど僕に分かるわけがない。小説を読んで解釈をした時点で、この小説は僕の想像した域以上のものにはならないのだ。読者に伝えたいことがあるのかどうかも定かではないのに、それを一つに解釈しようとするのは納得がいかない。

で、僕のセンターの小説セクションはそんなに点数がよくなかったわけだ。小説は読んだ人の数だけストーリがあるのだ、というか言葉というのはそういうものさ。自分の内に湧き上がった感情を一つの正答に置き換えることは耐え難い。音楽を聴いてどんな気分になるのかも全く自由。そして科学を捉える発想も個性を生かした表現が溢れてもいいはず。枠のない着眼がどんな分野でも発展の種になると信じている。

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2006年02月04日

DTM仲間

今日は研究室を少しだけ抜け出し、渋谷にある Rock oN へ。主にDTM関連商品を扱っているショップなのだが、SONAR5の講習会を申し込んでいたので、それを聞きに行ったのだ。スタジオのような小さな部屋に連れて行かれ、20人くらいの人でその狭い空間が一杯になった。半分くらいの人はもうすでにDAWソフトを活用して曲を作っているような人だったが、僕のようにこのソフトの購入を考えている輩も当然いた。ライバルの Cubase との聞き比べをしたりするものだから、そうとう Roland 陣営はSONARに自信を持っていることがうかがえる。たしかに中低音域が Cubase に比べてしっかりと出ている。最終的には好みの問題のようだが、なんとなく安定感があるのはいいことかもしれない。

僕の隣に座っていた人はもうSONAR歴4年の人で、これまで何十曲か曲を作っていた人だった。今はアルバイトで曲をつくり、それを提供しているという。以前は長野でギターを作っていたようだが、給料の割が合わなくて東京に戻ってきたのだ。僕より年下の彼だったが、僕の隣に座ったが縁の尽き、いろいろ教えてもらい、最終的には彼と友達になってしまった。学校に戻ってきてから彼にメールをしたら、これまでに作った曲を置いてあるブリーフケースのアドレスを教えてくれた。素晴らしい、ボーカルをつければかなりのモノになるのではないのか、と思える代物であったが、実際にそれでお金を稼ぐというのは大変なことらしい。どの世界もプロになるということは並大抵の努力じゃ無理ということか。でも、かなりの気晴らしができたので、なんか元気が湧いてきた一日であった。

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2006年02月03日

電子の軌跡?

原子核の周りを回っている電子の軌道を精確に記述するには量子力学の話に踏み込まなければならない。しかし、いわゆる分子の共有結合などを説明するときは、電子という実体が原子核の周りをぐるぐる回っていて、それが原子間で共有されるようなイメージを描くことになる。そう、電子は小さな粒子として振舞っているかのように表現され、そのブンブン回っている粒子の軌道を電子軌道、もしくは電子雲などと呼ぶわけだ。これが一番直感的に理解できる説明だと思われるし、間違っているわけではない。が、実際のところは、電子軌道や電子雲は電子が存在する確率が高い場所を表している。電子の運動の軌跡ではなく、あくまで電子の確率波を模式的に表現したものであるのだ。一言でいえば、電子雲とは電子の波動関数を図式化したものということになる。

こう考えると、高校生に電子軌道を教えるのは結構酷なことだ。でも、電子軌道を教えることで、共有結合を含む多くの分子結合の理解に役に立つ。多重結合や配位結合を形成したときの分子形状を推測するのにも便利だ。量子力学を明確に理解していなくても、電子の粒子としてのイメージが湧けば電子軌道は一応腑に落ちる。大学受験までは、とりあえずはそれで良しとしなくてならないだろう。大学に入ってからちゃんと量子化学を勉強して、イメージを精確なものに書き換えるしかない。でも、大学に入ってまともに教えてくれるのだろうか。僕が初めて大学で電子軌道の講義を受けたときは、とても教官が軌道の量子性を理解しているようには思わなかった。当時は結局スピンをきちんと理解することができず、電子が自転しているのかと思っていたのだから…。

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2006年02月02日

進路はあるのか

今年度学位が取れようが取れまいが、4月からの働き口を探していて、とある研究室に注目している。まずは、その研究室の様子を垣間見ようと、まずは年齢の近い助手さんにメールを出してみた。自分がやるべき仕事の内容や研究室の雰囲気など、いくらか情報が得られれば、さらに応募の検討を加えることができる。最終的には、そこの研究室の教授に直接メールをすることになるのだが、とりあえずジャブを打って反応をうかがってみた。返事の内容はとてもいい感じ。でも、こちらが具体的な話を切り出していない分、反応も抽象的な記述が多い。それは仕方のないことだが、なんとなく受け入れる事に対して歓迎されうることが分かり嬉しくなった。実際に自分がアプローチしたい研究に携わることができるかは難しいが、最初の段階で行う仕事も自分には有用そうなものだ。一応、自分の考えも含めて返事をして、もし機会があったら、研究室へ見学に行くことなどを伝えた。しかし、一番問題なのは最終的にウチの教授が首を縦に振ってくれるかなんだよな。一寸先も読めない。

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2006年02月01日

アフリカに転勤

友達が転勤になった、しかもよりによって転勤先はアフリカだ。その友達は結婚して子供もいるのだが、子供は日本において、奥さんと二人でアフリカに向かった。そんな友達に会いに、僕は同じ大学に通っているSと二人で、アフリカを訪ねることにした。彼の家に着いてみると、周りには何もなくただ一件の掘っ立て小屋があるだけ。家の中もたいした物はなく、おどろおどろしい雰囲気だ。僕たちは気晴らしにその近くで一番栄えている街に繰り出そうと、汽車の停車場に向かう。荒れ果てた大地に何本ものレールが無駄に走っているのがおかしい。切符を買おうと窓口へ行き、財布を見たら日本円しかもっていない。100円玉をおばさんに見せるとそれで切符を購入することができた。列車に乗るために長い列ができている。あと2分くらいで汽車が来そうだ。僕たちは本当に日本に帰れるのだろうか、不安がよぎる…。

と、ここで目が覚めた。まったくもって意味がよく分からない夢だ。僕の深層心理が反映されているんだろうけど、アフリカに転勤になった友達もかわいそうだ。ちなみに、その友達はちゃんと大阪の会社で働いていて、今年の年賀状で切手が当たった奴なのだ。これって恩を仇で返しているのだろうか。

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