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2005年06月29日

過去問

私立学校の教員適性検査の申し込みを済ませる。検定料2万円はちょいと高い気がするが、私立ということであきらめるしかない。各教科に関して過去問の販売も行っていたので、帰り際に「教職教養」と専門の「化学」の問題を購入してみた。専門のほうは問題なさそうで、センター試験程度の設問が毎年出題されている様子、逆に教養のほうがまったく分からなくて、少し青ざめた。法律関係は特に分からない、週末に参考書を買いに行かなくてはならなそうだ。

投稿者 はるお : 03:32 | コメント (72)

2005年06月28日

五体不満足

夕方ごろちょっとした用事で後楽園のほうに行った時、乙武洋匡氏と横断歩道ですれ違った。彼は普通に移動していただけだろうけど、その姿はやはりとても目立っていて、多くの人が気付いていたことだろう。彼の「前を見据える眼」は真剣そのもので、一心に自らの身体を前進させていた。彼は自分を取り巻く現実を的確に判断して、自らのできる活動範囲を適切に選択しているのだろう。辛い現実を突きつけられても、それを跳ね除けるパワーを持つ人は心底スゴイと思う。彼の気持ちは彼にしか分からないことであるが、彼は本当に「前」がどちらであるのか自分なりに信じているものがあるのではないかと感じる、そういう気迫が出ているのである。やはり、人間のできることはひたすらいろんなことを試してみることから発見されてくるのだろうと再認した一日だった。

投稿者 はるお : 01:55 | コメント (83)

2005年06月27日

第2回アントレ道場

なんとか無事(?)に自分のセミナー発表が終わる。ダブルヘッダーは辛かった、これでしばらくセミナーが当たることもないだろうか。

18時から第2回のアントレプレナー道場勉強会が催されたので、研究室の友達と会場に向かう。第1回目に比べて半分ほどに人数が減ったような印象を受けた。立ち見も出たほど一杯だった会場が、かなりの割合で空席を有している。で、肝心のお話はというと…、あんまり前回と変わらなかった。自分が会社を興しましたという熱い興奮は伝わってくるんだけど、その会社の具体的な目標は絞りきれているの?お金持ちになりたいとか、社会に貢献したいという目標じゃなくて、どのようにしてそのような目標を達するのかという実践的な指標はどうなっているのさ。もしかしたら、わざと話していないのかも知れないけど、演者の崇高な目標と現実のギャップがタダタダ浮き彫りにされていくだけのような気がしてならなかった。

ビジネスサマリーの提出は来月の中旬、それまでに一緒に戦うメンバーも集めなくてはいけない。同じ研究室の友達と組んでもいいのだけれど、真剣に教育問題を考えてくれる人が見つかるといいなと思う。

投稿者 はるお : 01:49 | コメント (90)

2005年06月26日

フルートづくめ

友達が入っているフルートアンサンブルを聴きに、さいたまの与野本町まで出かけた。久しぶりに生演奏が聞けるなぁと楽しみにしながら、埼京線に揺られて川を渡る。駅から徒歩3分と聞いていたので、会場のコミュニティーセンターに辿り着くのは容易なはず…、が迷ってしまった…、不覚である。そのおかげで与野の町を散歩(?)することができ、上品なブーケを買うことができたので良かったことにしている。少し汗ばんでしまったけどね…。最終的にはタクシーに乗り、無事会場に到着、道を間違えるに至った運命の交差点が憎かった。でも、無事友達の小発表の出番には十分間に合って、かなり満足している。気分転換にもってこい、音楽は至福の清涼剤と感じながらも、ある団体が共同でゆっくりと流れる時間を共有しているのが羨ましかった。普段忙しくても、こういう時間に浸ることは実は刺激的だったりする。場所や時間によって異なるスピード感覚を満喫し続けていきたい。

投稿者 はるお : 00:56 | コメント (68)

2005年06月25日

夏の影

6月にしては気温の高い一日で、多くの場所で今月の最高気温を更新した。夏の影が見える、もう少しすれば暑い夏が来る。夏の雰囲気が好きなのは、自由度との関連があるかもしれない。夏は生命体の活動が活発になり、ヒトを含めて多くの動植物が大量にエネルギーを発散する。束縛されずに解き放たれるパワー、その自然のパワフルさに自分も共鳴し、代謝が亢進してくる。分子がエネルギーを獲得することで、その運動量が増大する感覚が、自らの身体を覆い尽くす。自分の肉体が太陽によって活性化させられているどよめきを抑えていられなくなる。社会的束縛から開放されて、自由に飛び回りたくて仕方がない。

投稿者 はるお : 01:29 | コメント (59)

2005年06月24日

宇宙の起源とホワイトホール

早いもので、相対性理論の講義も今日が最終回、いわゆる一般的なアインシュタインの重力理論で締めくくられた。いまや相対性理論が宇宙を説明しうる基礎理論となっているわけで、そこからブラックホールや宇宙の起源を考察できるようになった。ブラックホールは光さえ抜け出せない重い質点により成り立ち、宇宙の終焉を思わせる暗黒地帯である。宇宙の起源はそのブラックホールを時間反転させることで説明できるということらしい。つまり、限りなく重い質点から宇宙が始まり、ドンドン膨張していくわけである。しかし、ブラックホールを時間反転させたものはホワイトホールだということも言っていて、ホワイトホールと宇宙の起源は同じなのではないかと悩んでしまった。竹内さんに聞いたら、そういうふうに考えることはできるが、どうもわれわれの今いる宇宙の起源とホワイトホールには違いがあるみたいなのだ。詳しくは調べてきてくれるそうなので、楽しみである。実際にホワイトホールは観測されていないので、ホワイトホールが存在するのかどうかは分からないし、もしかしたらそんなものは無いかもしれないわけですよ…。

投稿者 はるお : 01:18 | コメント (78)

2005年06月23日

自然科学をやる理由

ここへ来て自然科学に携わる根源的理由がよく分かってきた。それを一言で言うならば、”パラダイムシフト”を体現したいから、ということになるのではないか。これまでの科学では説明のつかない事象を説明できるようになる快感、きっとその快感を得たいがために自然科学の魅力から離れられないのでいるのである。しかし、そう簡単に”パラダイムシフト”を提唱できるわけでもないし、現実に自分の周囲でお偉いさんがやっている科学は、これまで培われてきた科学の想定範囲内にすぎない。そのような環境で、なかなか実感として面白いと感じることが難しい場合も少なくない。せめて、”パラダイムシフト”を呼び込める予感が自分の中に自信としてないと研究というのはつまらないものになってしまうのではないか。もちろん、何かの形で何かしらの結果が出るというのは面白いと思うが、それだけで自分が一生満足できるとは思えない。研究意外に楽しいことは山ほどあるから、気が緩むと、いろんなことをして遊んでしまうことはよくあるわけだし。人の文化的進化を目の当たりにするために、僕は身を投げ打って自然科学に取り組んでいる気がする。いつまで持つのか自分でもかなり不安であるが…。

投稿者 はるお : 04:32 | コメント (84)

2005年06月22日

セミナー準備

ウチの研究室には、ジャーナルクラブとクラシックセミナーと呼ばれる2つの論文紹介ゼミがある。前者が新着論文を、後者は古典論文を紹介するのだが、来週は両方とも自分が当たっていたりする。2つのセミナーの当たる順番はまったく違うローテーションで回っているのだが、なぜ自分だけ一遍にやらなくてはならないのだと若干不満もある。でも、一度の苦労で済むならいいかと思い、特に誰かにどちらかの交代を依頼することもなかった。以前から感じていたことなんだけど、僕がセミナー当たるときは一度に複数回やるときが多い、きっとそういう宿命を基本的に持ち合わせているのでしょう。性格にあっているのかもしれない。

投稿者 はるお : 05:05 | コメント (83)

2005年06月21日

学生モニター

朝日カルチャーセンターで竹内さんの物理学講座を受けているのですが、そこで学生モニターを募集していたので、応募してみた。するとあっさり当選(?)してしまって、一講座に限って無料で受講できることに。もちろん、受講に際しては条件があって、800字以内のレポートを提出しなければいけないのだが、それでタダになるのだから儲けものだ。来期は竹内さんが、「海外科学雑誌で読む最新サイエンス情報」という講座を開くので、自分のメルマガの研鑽のためにもこれを取ることにしている。彼のサイエンスライターとしての技術を参考にし、生命科学分野を中心にした自然科学の啓蒙に役に立てればよいと思っている。

投稿者 はるお : 02:20 | コメント (95)

2005年06月20日

私学教員

4月に東京都の教員採用試験説明会を聞きに行ったが、今日は東京私立中学高等学校協会が主催する私学教員適性検査説明会アルカディア市ヶ谷(私学会館)で開催されたたため足を運んだ。正直、受検要項を貰いに行くことが目的だったのだが、都の説明会に比べていささか華やかだったので、その魅力に惹かれて、最後まで説明を聞いてきた。(私学会館は大きくて綺麗な建物です)。質疑応答や個別相談にも応じてくれたのでそれなりの親身さを感じることはできたが、本音を漏らすと、総じて雰囲気が古い。それは古き良き伝統ということにしようか。すべてが合理的で効率的なシステムであることが人間性に影響を与えるのかもしれない。「教官の理想としては、専門性と人間性を持つことに尽きます」とご挨拶されていたから、彼らの精神の中にある人間性の表れだと解釈するしかあるまい。本当は人間性に定義など存在しない。「人間らしさ」とは何かを追求したら、それは十分哲学の世界へ入り込むことができる蟻地獄のようなものである。自分の直感で感じうる人間性を信じるしかないように思える。

私学では、中高一貫教育が多いため、中学の免許を持っていないことは不利になりそう。受検資格はあるので、8月の検査前になったら教職の勉強を始めてみようか。

投稿者 はるお : 02:00 | コメント (95)

2005年06月19日

つかみどころ

自分の解きたいと思っている問題に解く取っ掛かりみたいなものがないとどうも途方にくれてしまう。科学を推進するためには、明確な目的よりも問題を解く手法がどれだけ充実しているかが律速なのではなかろうか。そういう意味では、とある技術革新が爆発的に科学を推し進める原動力になるわけである。目的意識は確かに重要なのであるが、今現実的に解くことができる問題を扱わないと科学は成り立たない。いわゆる検証の可能性が高いものが研究対象となるわけである。最先端の科学というのは現段階の技術で検証可能なギリギリのところを突付いていることだと言っても過言ではない。逆に言うと、目的意識が高すぎて、現在の技術では証拠を出すことができないことに興味があると、科学の非力さを感じ苦悩することになる。最終的に問題が解けることが研究者として喜びにもなるし、それが論文という形で業績にもなるのだろう。しかし、問題設定を非現実的なものにしてしまっては、解答する喜びも、研究結果も手に入れることができないことになる。問題を解く取っ掛かりは現実をよく見据えることで浮かび上がってくる。未だ現在の科学は哲学的論考に手が出せないのが現状であり、それがまだ自分の中で割り切れないのが辛い。

投稿者 はるお : 03:43 | コメント (126)

2005年06月17日

一流

一流の研究者とは一体何なのだろうか。そもそも一流という概念がよく分からなくなってきているのだが、客観的な判断基準を求めるなら、やはりその人の業績で研究能力を判断するしかないのである。研究者の業績は、主に論文の発表を指していることが常であり、これ以外に評価のしようもないのが現実である。そして、その論文の評価は論文の載った雑誌の名前で決まると思ってよい。同じ科学者といえども自分の専門以外の研究成果を正当に判断する能力はほとんど持ち合わせていないのである。インパクトファクター(IF)の高い雑誌に論文を載せた研究者が出世することができるシステムになっていると考えてよい。もちろんIFが高い雑誌の審査は厳しく、掲載にこぎつけるのは難しいかもしれない。しかし、論文も書きようであって、自分の行った研究の重要性を巧みな論理を操って築き上げれば、審査員を説得することもできる。それには論文を書く技術に秀でている必要があるかもしれない。でも、こんなことでは研究内容の面白さというより、ただ論理ゲームをして遊んでいるようにしか思えない。科学の裾野が広がり、こと細かく細分化が進んでしまったがために、今はその隙間を埋めていく作業が科学となってしまっている。そういうことができる人が今の時代では一流の科学者として成り上がっている。将来一流になろうがなるまいが、今は亜流に進んだほうが精神衛生上はよさそうである。

投稿者 はるお : 01:30 | コメント (17)

2005年06月15日

きっかけ

問題意識の違いは問題意識を持つに至ったきっかけの違いが反映されているように思う。どんな現象を見て、そういう問題を持つようになったのかっという研究者にとって最も根幹的な部分がその人の考え方を支配するのだ。物事を探求しようと思ったきっかけの次元が近ければ、お互いなんとかうまくやっていけるかもしれない。しかし、そのきっかけの幅というのは驚くほど多様であって、表面的には見分けがつかないこともあるだろう。研究というのは、研究しようと思えば、どんなこともできる。それは分かっていないことが山ほどあるからだ。だから、なぜこの人はこの研究をしているのだろうと、その人の根幹を見抜かないといけないのだ。実は、それには少し経験がいるようで、なかなか最初のうちは分からない。僕は未だこの能力が身についていないのかもしれないが、最終的にはいろんな人と話してみるしかないのである。そして、自分はどういう研究スタイルを好むのかを明確に提示した文章作りに励まなくてはいけないと思う。うわべだけの研究計画書などに騙されてはいけない。

投稿者 はるお : 04:29 | コメント (88)

2005年06月14日

問題意識

科学を進める上で問題意識が重要であることに疑いの余地はない。問題意識の持ち方一つで、研究の方向性が決まるわけだから、それは科学者のスタイルそのものを反映しているといってもよい。共同で研究を進めるのなら、お互いの問題意識に共鳴できるかどうかが、何にもまして必要なのではなかろうか。それは、教授と学生の関係でも言えることである。たとえ自分が学生でも求めたい答えの対象が教授と異なれば修羅場と化すこともあろう。それでもなお彼の元で仕事を続けている状態は、研究者として平等な扱いを受けていない封建的な関係である。学位を取得した後においても、お金で雇われているただの奴隷研究者になってもおかしくはない状態だ。だから、僕はどの研究室でも、問題意識がある程度共通していて、お互いが一人の研究者として尊敬されている状態になっていることを望んでいる。問題意識を共有できる仲間探しの旅は今しばらく続きそうである。その旅は大学の中だけで終えることもなかろう…。

投稿者 はるお : 03:15 | コメント (48)

2005年06月13日

自分を追い込む

基本的に僕は自分を追い込めるところまで、追い込んでから仕事をする性格のようで、結構ギリギリまで作業に取り掛からないことがあります。好きで好きでしょうがないことなら、毎日コツコツできるのですが、たいていのことはギリギリセーフを狙っているのです。間に合うか間に合わないかというスリルを味わえることと、間に合ったときの開放感が得体の知れぬ報酬を僕に与えているからのように思います。自分を背水の陣にまで追い込んで、自らを奮い立たせるのはいいのですが、判断を間違えてそのままその背水にドボンということもあります。それを教訓に次回からはもう少し早めに取り組もうと頭の片隅では思っているのですが、過去の例を見ると、あまり実行はしていません。学位を取得するためにしなくていけないことをバッチリ調えなくてはいけない時期になりつつありますが、まだ実感が得られていないのは少し問題かもしれません。これで背水に落ちたらシャレにならないです。

投稿者 はるお : 04:54 | コメント (424)

2005年06月12日

カーレース

昔から心の中でカーレースの世界に飛び込んでみたいと思っていた。今でもその気持ちは変わらないし、お金と時間が許すならチャレンジしてみたいことの一つである。それはもちろん趣味として楽しむことができればいいなと思っているだけだけれども、今のところ本格的にアプローチをする予定はなく、欲望を押さえ込んでいる状態が続いている。

僕がカーレースに興味を持ったのは、中学生の頃だろうか。当時のF1の英雄アイルトン・セナの存在は僕の心に大きな衝撃を与えていた。日本のエンジンを積んだマシーンを巧みに操り、ワールドチャンピオンに幾度となく輝いたことを知る人は多いことだろう。マクラーレン・ホンダの怪物をブラジルの天才が捌く姿に、当時の僕は酔いしれていたのだ。

なぜ今もなおカーレースに憧れがあるのだろうか。実際に自分もその戦慄の中に加わってみたいという欲望は消えない。セナは最後までレーサーだった。事故で命を落とすレースの世界、その死と隣り合わせの世界に自分の身をおきたいと思うのは人間の闘争本能の関わりを否定できない。生命は本来、自らが生きるがために、自らの命が危険にさらされているはずである。自分の身体を救うためには、相手を殺すこともある。それは自然の中に存在する生存競争を反映していることに過ぎない。自分を守るために、自らを危険にさらす行動に出ることは遺伝子に組み込まれた摂理なんだろう。それは戦争の歴史をつくり上げた所以でもある。

投稿者 はるお : 05:19 | コメント (82)

2005年06月11日

生きている証

苦しさを感じていることは生きていることの証でもある。それは、幸せを感じていることが生きている証だと言い換えることもできるだろう。「生」というものを、苦しみで表現するか、楽しみで表現するかは幼少時代の経験がかなり影響してくるのではなかろうか。子供の頃は、生きているということがどういうことなのか分からなかった。自分自身が感じえること全てが、「生」であった。そして、「死」は「生」の反対であって、そのとき感じていた感覚から離脱することが「死」だったのである。

生きていることが楽しいと思い続けて育った場合、子供心にして本気で死にたいと思うことはまずないであろう。生きていることに感謝する意識が働かないほど、目の前の楽しさに没頭すれば、それを失うことを本能的に拒絶する。そのような生命体が、自ら死を選ぶことは考えにくい。生きていることは自らにとって得なことなのである。しかし、今の感情がひどく辛くて、それを放棄したいと思えば、それは死の選択を目指すことにもなる。僕は小学生の頃何度も死にたいと思った。今のこの苦しい状況を打破するには死が有効であることに薄々気がついていたのだ。この苦しみから解放されるなら、死んだほうがいいのではないかと自分勝手な思いをめぐらせていたのだ。それは、生よりも死のほうが楽であろうと判断させた肉体的本能があった。

なぜなら、僕は「小児喘息」を患っていたからである。小学6年生まで続いた。中学生になって治ったことには心から感謝している。もしこの病気から開放されていなかったら、今の僕はどうなっていたのかまったく予想することができない、というより、予想することが怖い。「喘息」は本気で生命の危機を感じる病気なのである。喘息発作が生じると、気道の狭窄により、物質的に取り入れることのできる酸素の量が激減する。呼吸困難に陥ると文字通り、息苦しくて、まさに生き地獄である。夜中に発作が起きれば、親が飛び起きて、噴霧器を僕の喉にあてがい、症状が治まるまで付きっ切りの看病、今思えば親の負担も相当なものだと思うが、当の本人はその苦しみと戦うことで精一杯で、親の気持ちなんて考えることはできなかった。

だから、「生きていることは苦しいこと」と思うのは自然の成り行きであった。苦しいことと戦うことに一種の覚悟ができたように思う。苦しいことに「生」を強く感じる精神が幼少期の体験を通じて築かれていったのではないだろうか。僕は、「死」の選択が比較的容易であることを知っている。しかし、自分がもし僕の親だったら、子供(僕)の死を希望するだろうか、そんなはずはない、あの親の必死さを見ればそれは誰でもわかることだ。生きていることは家族への敬愛そのものである。生きていることは苦しいけれども、その家族を思う気持ちが僕の糧になり、生きる喜びになっている。僕の「生」への価値観はもっぱら主観的な苦しみから創出され、それが安全地帯になっているようにも思える。

投稿者 はるお : 01:53 | コメント (63)

2005年06月10日

E=mc2

相対論から導き出されるパンドラの箱、それが世界で最も有名な公式 E=mc2である。相対論を勉強をしていると、絶対的な神の視点が無くなり、観測者の主観性が際立ってくるが、それでも、不変量というものは存在する。ローレンツ変換がお互いの世界の言葉を翻訳してくれる式として重要であるが、そこから時空の不変量が成り立つことを示すことができる。また、エネルギーと運動量の間にも同様に不変量が存在するのだが、それはなんと質量であった。実は、ここの部分は理解があいまいで、なぜ、エネルギーの2乗から運動量の2乗を引いた値(不変量)が質量の2乗になるのか、実験したらそうなったのか、理論的に証明できるのか、はたまたそう定義したのか理解できなかった。そこから、E=mc2を導き出すのは比較的簡単なのだが、基本公式みたいに丸暗記するのではなくて、ちゃんと疑問を解消しておかなければ…、竹内さんにメールしよう。

投稿者 はるお : 01:30 | コメント (90)

2005年06月09日

フランスからの贈り物

友達がフランスの研究会に参加したので、ワインが送られてきました。もちろん、vintage なわけではないんですけど、おいしく頂いております。ラベルは全てフランス語で何が書いてあるかまったく解せませんが、「Gewurztraminer」というワインらしい…。チーズを買ってきて、一人気ままな晩酌が進んでいきます。このまま酔っていたいところですが、明日もあるのでこの辺で止めときます。昨日は身体の感覚が少し鈍ったためか刺激を求めて逆立ちとかしていました。おかげで今朝背中が痛かった記憶があります。お酒に飲まれるわけにはいきません。

投稿者 はるお : 02:36 | コメント (71)

2005年06月08日

ドイツへ

サッカーを普段見なくても、今日のような試合があるときはどうしても気になりますね。僕もやはり愛国者のようです。日本代表、ワールドカップ出場おめでとう!!ドイツへ一番乗りです。

日本に住んでいて嫌になることもたくさんありますが、僕は基本的に日本のことが好きです。もちろん、自分の生まれ育った国だからですが、日本の伝統的な文化と豊かな自然は誇りにしてもいいのではないでしょうか。子供のころ、父親の日本史好きが高じて、史跡巡りをよくしました。そして、森林の中に入り、温泉にもよく入りました。父親が仕事を放って、僕をいろんなところに連れて行ったことが、僕の原点をつくったのでしょう。そのおかげで、理科や社会が好きになったのだと思います。日本に残っている歴史や自然を愛している気持ちが「日本」代表を応援している原動力なのです。

投稿者 はるお : 02:22 | コメント (61)

2005年06月07日

Sound of music

音楽は好きだけれども、普段積極的に音楽をかけることはない。音楽をかける習慣がないというのも一つの理由かもしれないが、僕は音楽を聞いていると、ひどく思考が乱されてしまうのである。実は、その乱れに身を任せてしまえば、とても心地よくて、そのせせらぎに全てを預けたくなる。だから音楽を聴くときはコンサートに行くのが僕にとっては最適なのである。(けど、最近は時間もなければ、お金もないのだけれど…。)

音楽も本を正せば、動物の鳴き声、人間の発声が起源であろう。そして、人間の声は言葉を伝える道具ともなった。さらに、それは体系づけられ、言語という思考をも支配する神器に育った。僕は日本語を使って考えている。それは間違いなく、Sound of language であって、その響きと構造に世界が閉ざされている。自分がどのような活動状態であっても、なにかしろの言語的音色が、頭の中に響いているのだ。そのような時に、外部からの音響入力がその sound を干渉し、脳内に不協和音を轟かせる。それが気持ち悪くて、どちらかの sound を落としてしまうという始末だ。

音楽は五線譜の上に記号として記せるけれども、思考にはその五線譜に対応するものがない。でも、実は脳内にこの五線譜に対応するものがあるのではないかと思っていて、僕たちはそれをまだ見つけていないだけではないだろうか。だって、まったく同じ音楽は存在しないはずだけれども、その音楽を作り出すルールはある程度確立している。たとえ同じスコアを見ても同じ音楽にならないのと同じように、思考にも普遍的なルールがあって、それを素に無限のバリエーションが存在しているように思えるのだ。きっと、そこに Sound of language と Sound of music が干渉する理由があるはずだ。早くゲノム以外のスコアを見つけたいと思う。

投稿者 はるお : 03:06 | コメント (76)

2005年06月06日

観察力?

研究室で行われる一連のセミナーが終わったあと、教授がおもむろに自分のパソコンをプロジェクターにつなぎ、なにやら写真を見せようとしている。医学部の学生に見せたらしいのだが、僕らにも見せたいもののようだ。で、なにかというと、彼が撮った鳥の写真なのである。「研究者には観察力が必要です。」なる大義名分を打ち出し、彼は作品を僕らに見せ続ける。「この鳥は何ですか?」って、それって観察力を養う問題なんでしょうか。知らないものは知りませんよ、図鑑でも引っ張り出して調べるわけじゃないのだから。「普段、周辺を飛んでいる鳥に目を配り、その違いを観察しましょう。」とのこと。ん~、たしかに観察力を養うことで、ちょっとした違いを見逃さないということは重要だとは思いますが…、これって完全に教授の趣味というか自慢話なんじゃないの?

投稿者 はるお : 01:05 | コメント (114)

2005年06月05日

想像力と創造力

自ら創り上げる妄想と、僕たちが現実だと思っている出来事との間に、果たしてどのくらい違いがあるのだろうか。人の想像力は無限に広がり、これまでに様々な種類のフィクションが創られ、文化を育んできた。一方、観測されうる範囲内の事実から、人が想像もしえない自然現象を捉え、知性を育んできた。人はどのような形にしろ、多くのモノゴトを創り出し、それらによって、精神的にも肉体的にも支えられてきているのである。どちらかに片寄って仕事に立ち向かってはいけない。僕は大いなる想像力を持って、自然科学の進展に貢献したいと強く思う。それなのに、いまは多くの研究者がサラリーマン化しているのではないか。仕事のために仕事をするのではなくて、自分が素晴らしいと思うものを創り出すことを目指して仕事をこなしていきたい。そのような環境で仕事をすることは、もちろん相当な苦しみを伴うが、それでいいのである。

投稿者 はるお : 03:59 | コメント (118)

2005年06月03日

思わぬメール

ブログをつけていると、知らない人から思わぬメールをもらうときがある。月曜日に開催されたアントレプレナー道場に参加していた学生から突然メールをいただいたのだ。彼は参加者間で自由に意見交換ができるようにメーリングリストを立ち上げ、登録者を募っていたのである。僕は勉強会のあとの懇親会には参加しなかったのだが、彼はそのとき、担当の先生によりよい意見交換の場を求めていた。実際に懇親会では1時間という限りある時間の中で、名刺交換を数名とすることが限度なわけだから。自主的に行う分には何をしてもいいわけだし、彼も積極的にツール作りに励み、その結果として良き仲間に出会えれば彼の思いは成就する。どうやって、僕の日記に辿り着いたのかは聞かなかったが、彼の努力が一人の仲間を増やしたのは確かだ。やはり最終的に一人でできることには限界がある。信頼できる同志を見つけられるかは僕にとっても大きな課題だ。

投稿者 はるお : 00:53 | コメント (89)

2005年06月02日

脳化を拒否できない

養老孟司氏の現代批判の中で、よく脳化や都市化の話が出てくるが、この概念を打破することは僕にとってもうほとんど不可能に近いかもしれない。僕は自然を愛しているし、生身の人間を見つめていたいと思うけど、知を追求すればするほど、脳だけで物事を考え出してしまうのだ。脳化は麻薬に近い、考えている快感から脱することに大きな抵抗を感じ、たとえそれによって時間が大量に奪われても不愉快さは皆無だ。自然科学研究者なら、自然をじっと見つめる観察姿勢を貫かなければならないことは分かっているが、この退屈な作業を続けられるのか本当は自信がない。僕の知的好奇心は、ますます理論やシステムの構築に向かっていき、現代社会が抱えている問題に自ら突き進んで行ってしまっている様に感じる。脳化は最終的に身を滅ぼすのではないか、「バカの壁」を超えられる人間は、相当に野性的か、もしくは相当に理性的かどちらかのタイプであろう。この現状で、そう簡単に超えられる壁ではないような気がする。

投稿者 はるお : 01:31 | コメント (157)

2005年06月01日

晩酌

普段アルコールは宴会がないと飲まないのだが、どうも最近気が晴れないので、風呂上りに一杯やってしまった。もともとそんなに強い体質ではないので、飲む量はたいしたものじゃないけれども、飲んでしまったものは飲んでしまったのである。ビールは最初の一杯はいいけど、そのおいしさが持続するわけではないので、最後まで飲みきれない。だから、比較的手軽で安く手に入るアルコールとなると缶チューハイか、ということで最寄の赤札堂で購入し、冷蔵庫にストックしてしまった。適量なら薬になるでしょう。まったく飲まないより、少しは飲んだほうが健康にいいことは確かですからね。あ~、僕もずいぶんストレスがたまってきたな~と身に沁みて感じるのでした。

投稿者 はるお : 02:02 | コメント (96)