やはり、多変数の動きを同時に理解することは至難の業でしょう。だから、先人はとにかく還元的に学問を構築していったわけです。もちろん、多くの知が蓄えられました。そして、今こそそれらを「くっつけて」みようというのが僕の携わっている「学術統合化プロジェクト」です。僕が最近何となく感じているのは、この「くっつける」作業は至極丁寧に行った方が良いという事です。コンピューターを使ってむりやり「ガッシャン」じゃなくて、一つずつ一つずつ丁寧に学問を「くっつけて」いくということなのです。時には、適切な変換が必要になることもあるでしょう。多変数を同時に理解することはできないかもしれないけれど、それらを同時に扱えるシステムがあれば、生命の複雑性が見えてくるかもしれません。
それを実現するのに、コンピューターの力が必要になることは確かです。これは、膨大な情報を扱うためには必須なアイテムですが、乱暴に計算させるわけにはいきません。僕はコンピューターで何かが解明されるとは思っていませんから。あくまで問題発見を手助けするためのツールに過ぎないわけです。なので、これまでの科学的知見を丁寧に計算機上で再現させ、その計算結果と実験結果の違いから、新たな事実や関係性の発見が容易になればいいと考えるわけです。
いまは、コンピューターで膨大な変数を扱えるはずです(どのくらい扱えるのかはまだ知らないけど)。僕たちの脳の活動を理解するために必要なあらゆる変数をコンピューターで扱える土台を作ってみたい。空間・時間・質量・運動量・エネルギー・電流のような物理量から、濃度・温度・エントロピーのような熱力学的な状態量に至るまで、あらゆる変数を一つの系で同時に計算できるようにはならないのだろうか。それで、脳活動が再現できなかったら、僕達にはまだ発見できずにいる法則が眠っているということになります。それを見つける(もしくは予想する)ことができるような仕事が達成されなければ、僕の中で「学術統合化プロジェクト」は失敗です。というか、これは数年で終わる仕事じゃない、ライフワークになるでしょう。だって、上に挙げたような多変数を一つずつ丁寧につなぎ合わせていかなくてはいけないのですから。つなぎ合わせるのに必要な実験もたくさんあることでしょう。それをこの大学が支えてくれるかどうかが鍵になります。総長が「知の頂点」を目指したいというのなら、そこまでやらせてくれる環境が必要になります。総長が交代して、それでプロジェクト終了なんてことになったら、もう学問することに嫌気がさすでしょうね。さて、行く末はどうなるのでしょうか、とっても楽しみです。
]]>僕自身、もう科学で解き明かしたいことは、あまりありません。あえて言うなら「脳の作動原理」が知りたいわけですが、生きているうちに解るかどうかも分からない問題です。だからといって、諦めるわけではなく、それが解決する方向に自分の研究テーマを持って行っていることは確かです。そして、そう簡単に解ける問題ではないから、多くの人の協力が必要なことも重々理解しています。むしろ、多くの人に協力してもらって、少しでも有用な知見を後世に残していきたいと思っているわけです。そういうことに仕事として関われる立場にいることは恵まれています。だからこそ、この状況を活用して、少しでも神経科学の進歩に貢献できればと願っています。
でも、世の中は競争社会。研究者という職業でも、相手を蹴散らして頂点に上り詰めることが最良のような風潮があります。科学全体の進展よりも、自分の業績が大切だという人も多いことでしょう(まあ、それが科学の進展につながるとは思いますが…)。実際、結果(論文)を出さなければ、研究費も取れないわけですし、極端な成果・業績主義に偏ってしまっても仕方がありません。もうそれは、風土として定着してしてしまったとしか言いようがないし、それ以外の客観的評価方法が見つからないという始末です。それだったら、主観的な評価をすればいいだけの話ですが、そのような逆風に立ち向かえる社会ではないのが現状です。
結局のところ、自分が可愛いから科学の進展が伸び悩んでいるのではないかと感じます。自分を犠牲にしてまで科学の発展に寄与しようと思う人などいないのです。それだけ、科学という仕事が生きることと密接に結びついてしまっている。それだからこそ生まれる素晴らしい研究もありますが、それだけでは中々「コト」が進まないことが、やはりあると思います。科学史上最も難しい問題を解くなら、生きることを気にしないで研究に望める体制があってもいいのかもしれません。その中で自己満足を越えた知の追究を行える人材を集める。そのうち大天才が生まれたら、何かブレイクスルーを生み出してくれるかもしれません。この調子だと、ブレイクスルーは相当先のことで、夢物語を見ているかのようです。
でも、正直に言うと、理想郷が生まれる必要は全くないのです。いや、理想郷が生まれないシステムが自然なのかもしれません。そんな不完全なシステムで、なんとか踏ん張っているのが現実の世界であり、今も昔も、そして将来もきっとそうでしょう。文化の発展も、それくらいゆっくりでいいのかもしれません。科学に過度の期待は持つべきではないのでしょう。その科学的作業の過程を楽しむことが最も重要なのです。
]]>結局、テレビで放送されているほとんどの番組はバラエティ番組なわけです。情報源として活用するにはあまりにもお粗末です。他のお笑い番組と同じような尺度で見れることが重要なのかもしれません。テレビが視聴率や金勘定で動いている限り、良質な番組が生まれにくい環境になっているのは確かです。でも、最も国民に影響を与えているテレビというメディアが、視聴者の受身的な姿勢を逆手にとって、不利益を被らせる体質には怒りを感じます。それなら、テレビではドラマとお笑いだけやっている方が、まだましなように思うわけです。
テレビ報道のあり方が変われば、日本が変わる。たしかに、テレビにはそのくらいの影響力があるかもしれません。真に教育的なテレビ番組が作られることは、人間の思考力を豊かにしてくれる糧となるでしょう。その作製には膨大なコストがかかります。放送によりそのコストを回収できるかは難しいところもあると思います。しかし、利益のことばかり考えていたのでは、また同じような事件が起こるだけです。同じ過ちを繰り返してばかりでは、現代人としての利点を活用しているとは言えないでしょう。「あるある」が潰れたのは良いきっかけかもしれません。信頼性の高い科学情報提供のあり方を大学のような教育機関で真剣に考えていきたいと感じています。
]]>いい曲であるほど、数え切れないくらい繰り返し演奏されてきたことでしょう。「のだめ」でテーマになっているクラッシク音楽は、その代表といっても過言ではありません。作曲家が亡くなって何百年とたった後でも、演奏家が絶えることなく、その音楽を響かせ続けるのです。その一曲に関わってきた演奏家はこの世界に一体何万(億?)人といるのでしょうか。しかし、それらの演奏で、一度たりとも同じものなど存在しえない、それが音楽の最大の醍醐味であるわけです。作曲家の意図を繊細に汲み、それを忠実に再現する過程の中で、演奏家の数だけの表現が自然と輝きを放つのです。
それを考えると、“作曲家(クリエイター)”より“演奏家(プレイヤー)”の方が人間的で、豊穣なものなのかもしれません。“クリエイター”は作品としてモノが残る一方で、“プレイヤー”は形として何かが残るわけではありません。もちろん、今は録音機材が発達していますから、「演奏家」や「スポーツ選手」など“プレイヤー”と呼ばれる人たちの活動はメディアを介して記録として残ります。しかし、“プレイヤー”達の作品は全て「時間」に依存します。「時間」という概念がなければ、彼らの作品の価値を評価することはできないのです。だから、“プレイヤー”達は、"PLAY" し続けるしかない。音楽を弾き続けるしかない、スポーツをやり続けるしかない、生き続けるしかない。そう、"PLAY" とは人間として「生きる」ことそのものなのではないでしょうか。
宗教的にたとえるなら、“クリエイター”は「神」に相当し、“プレイヤー”は「人間」に相当するのでしょう。だから、“クリエイター”は時に神と錯覚し、驕(おご)り高ぶることもあるでしょう。一方、“プレイヤー”は常にストイックなのかもしれません。しかし、“クリエイター”といえども、人の子には変わりありませんから、“プレイヤー”として多くの経験を重ねていき、その中の一部を結晶化させる作業に全霊を注ぎ込んでいるわけです。それは神に近づくための儀式のようにも映ります。しかし、それはあくまで儀式であるということを“クリエイター”は忘れてはいけないでしょう。
「クリエイティビティ…」、研究に携わっていると、このような単語は耳にタコが出来るほど聞かされます。確かに、研究者も“クリエイター”としての役割を担っています。発見や発明した事実は時間とともに色褪せることはありませんから。しかし、人間は常に“プレイヤー”であることを忘れてはいけません。僕は、"PLAY" にこそ「生」の本質が詰め込まれているように感じます。人生を "PLAY" する覚悟ができた時、僕は人として一つ脱皮できるような気がします。自分が作り出すものに変に固執しないこと、その覚悟が研究に自然と活かされることを望みます。人間の「クリエイティビティ」は常に謙虚でありたいと思っています。
]]>だから、僕はSPring-8での実験を思いつきました。神経回路の構造情報を大量に集めるための実験を組み立てて、自分自身で“生”の実験データを取得したかったからです。しかし、これだけでもデータが足りません。たとえ、実験が理想的にうまくいって、僕の欲しい情報が全て取れたとしても足りないのです。何が足りないのかというと、“時間”軸方向のデータが全くと言っていいほど無いのです。脳の機能を見ようというのに、時間分解能が高いデータが欠失していては、脳のダイナミクスを再現できません。今後、必ず必要になってくるはずなのです、電気生理の網羅的なデータが…。もう、この時点で、多くの人の協力が必要になってくるのは目に見えています。
マウスの脳で発現している2万個の遺伝子を網羅的に調べて、ネイチャー誌に載せたグループがあります。著者数は何人いるか想像できますか?なんと100名を越えています。ゲノム解読計画と同じように大量の人員をつぎ込んで突き進めた巨大プロジェクトです。これこそビッグサイエンスの成せる業です。僕は以前ビッグサイエンスのあり方について言及しましたが、神経回路構造と電気生理のデータを網羅的に集めるなら、ビッグサイエンスにならざらるを得ないでしょう。それを立ち上げるための起爆剤を、僕が仕掛けることが出来るのでしょうか。そして、私利私欲を顧みず、協力してくれる仲間達はどれくらいいるのでしょうか。このプロジェクトを本気で大々的に立ち上げるなら、この研究計画が完遂したときに“何が解るのか”を明確にしなければなりません。遺伝子発現と神経回路網と電気的神経活動のデータが全て一つのところに集結したとき、僕らは何を理解できるようになるのか、そのビジョンを強烈なメッセージとして打ち出さないといけない。僕がやろうとしていることは“心”の理解につながるものなのか、多少なりとも“高次脳機能”を理解できるものなのか、それとも理解可能な形で提示されるものは何も無いのか。これが明瞭な形で立証されなれなければ、研究を積極的に進めることができないのです。しばらくの間は、問題提起すら難しい悶々とした精神状態が続くのだろうか…。
]]>2005年8月に世界初のクローン犬誕生の報告がNatureに載りました。
しかしながら、黄禹錫のヒトES細胞捏造が12月に発覚し、クローン犬にも疑いのまなざしが向けられ、Nature側で犬のDNA鑑定をすることになりました。その結果がこれとこれの2報です(2006年3月)。
この検査により、クローン犬「スナッピー」は本物のクローンだと認定されました。では、どのような検査を行ったのでしょうか。それは信じられるものなのでしょうか。
まず、スナッピーがクローンであることを証明するためには、少なくとも2つの事実が示される必要があります。
1.体細胞を供給した犬の核DNAがスナッピーの核DNAと一致すること
2.未受精卵を供給した犬のミトコンドリアDNAがスナッピーのミトコンドリアDNA
と一致すること(ミトコンドリアは母性遺伝だから)。
2連報のうち、最初のDNA鑑定は、NIHやプリンストン大学のグループが行いました。彼らのデータを読んでみると、次のような結論が導けます。
・体細胞を供給した犬の核DNAは、スナッピーの核DNAと一致した。
・体細胞を供給した犬のミトコンドリアDNAは、スナッピーのミトコンドリアDNA
と異なっていた。
これでは、不完全ですよね、未受精卵を提供した犬のミトコンドリアDNAと一致するのかどうかのテストが行われていませんから。実際、彼らは未受精卵をサンプルとして供給されなかったことについて言及しています。
そこで、2報目に未受精卵をサンプルに含めた検証がなされています。しかし、検証した研究機関は、スナッピーを作ったグループが所属するソウル大の調査チームです。そのデータを読み解くと、
・体細胞を供給した犬の核DNAは、スナッピーの核DNAと一致した。
・体細胞を供給した犬のミトコンドリアDNAは、スナッピーのミトコンドリアDNA
と異なっていた。
・未受精卵を供給した犬のミトコンドリアDNAは、スナッピーのミトコンドリアDNA
と一致した。
・未受精卵を供給した犬の核DNAは、スナッピーの核DNAと異なっていた。
つまり、検証結果は、ソウル大のものがあれば十分クローンを証明できるものではあります。ソウル大は未受精卵をサンプルとして用いた後半2つの実験結果を持っているため、この結果が事実であるなら、クローン犬の存在は、めでたく立証されるわけです。
なので、ソウル大の検証グループが本当のことを言っているかどうかが大変重要な要素になります。まさか大学ぐるみで捏造に関わっているとは、到底思えないので、そこは彼らの実験データを信じるしかありません。今回の報道に関しても、まだデータは公開されていませんし、さらにデータが大学によって検証されたとしても、それが本当であるかどうか確証はありません。第3者をどういう立場に置く必要があるのか考えさせられます。ソウル大の調査機関が正常に機能していることを祈りつつ、今回の事実が本当であることを願っています。
]]>しかし、このご時世、科学者もサラリーマンです。3年もすれば任期が切れてしまい、その間に成果が出なければ、研究者をやっていられなくなります。一発の大革命より、安定した科学的事実の提供が求められます。既存の枠組みを壊す必要などありません。むしろ、その枠組みの中で堅実に業績を積み重ねていく人が勝ちます。与えられた仕事と割り切れば、意外とスムーズに仕事が進むのかもしれません。本当に頭のいい人は、冒険心と堅実さを良いバランスで転がしているのだと思います。
僕が今取り組んでいる仕事は、結局3年で全体像の見通しがつかないだろうと予想されるわけです。10年あれば、形が浮き出てくると感じられるけれど、そんな長期的なプランは現実的に受け入れられません。ちゃんと、他人様が認めてくれるような仕事を並行させるべきだろうか。でも、自分の興味がそこに湧かなければ、結局中途半端なものを作ってしまうでしょう。なかなか適当に研究を進めることができないのが僕の弱点なのかもしれません。
]]>医学部で習う唯一の物理学が“生理学”かも知れません。理学部では、生理学という名は身を潜め“生物物理学”と呼ぶことが多いでしょう(この場合は、ヒト以外の生物も含む)。“生物物理学”から“物”という漢字を(2つとも)抜き取ると、“生理学”です。人間を“物”として扱った学問なのに、“物”という字を外す姿勢に日本人の粋を感じます。やっぱり、人間を物として扱うことは本能的にできないでしょうね。生理学とは、人間を単なるパーツ(分子とか細胞とか)の集合体として扱わず、最高の理性を以って、生体の機能を統合的に理解する学問のように映ります。なんと、気高い思想でしょうか。そんな“生理学”の虜になるのは、僕にとっては必然のようにも感じています。まだ、しばらくの間、“物理学”の思考法を汲んだ“生理学”とのお付き合いは続きそうです。
]]>もちろん、いきなりすごい結果を出すことが出来たわけではありません。これから解決しなければならない問題は山ほどあります。しかし、その解決すべき問題が、非常に判りやすく顕在化しました。自分の進むべき方向が、より具体化してきました。技術的な困難はいくつかあるとは思いますが、非現実なものではありません。僕は、放射光という明るい光を手に入れることで、新しい世界を見ることができるような気がしています。
一時期、研究者という職業に辟易していましたが、こんなに面白い仕事が出来るとは思いませんでした。物書きもやりたいのですが、しばらくは研究に没頭する可能性が高くなるかもしれません。しかし、研究の合間を縫って、サイエンスコミュニケーションの仕事を効率的に絡めていければといいなとは思います。それは、主に竹内薫さんを応援することを意味していて、役に立てることは協力していきたいという感じです。僕が役に立っているのかなんて、自分では全然わからないのですが…。
基礎研究をやっていると、人の役に立っているかどうかなんて、全く実感がないわけです。他に、何か人のためにできることがあることは、心のバランスがとれて具合がいいように思います。結局、僕は人との関わりがないと生きていけないのです。思いっきり、基礎研究をやると同時に、思いっきり人とインタラクションしていきたい。まだヨタヨタですが、そんな風に道なき道を歩いていこうかなと。それで自分も周りもハッピーになれることを夢見ています。
]]>その様な論調の本があらば、基本的には読まないし、読み始めたところでも最初の数ページで読むのを止めるでしょう。娯楽として読書を楽しみなら、自分が読みたい本を読めばいいのだと思います。無理して吐き気を引き起こすような行為を自ら起こすことはないのです。しかし、そういう類の本が一般の人を錯乱させているのも確かなようです。一見科学的に書かれていることが、読者を惹きつけるのでしょうか。はたまた、その怪しさが良いのでしょうか。ことに、脳関係の本は興味を持つ人が多いでしょうから、人の目に付きやすく、そこに書かれた内容を容易に受け入れてしまうこともあるのかもしれません。
が、危険です。あまりに危険です。脳科学がいかにもよく進展している風に書かれている本ほど怖いものはありません。こういう知見があるからこうだと結論を先走り、いかにもそれが真実であるかのように聞こえるものほど疑いの目を向けましょう。そう簡単に、人間の行動を全て脳に還元できるはずがないのですから。たしかに脳の指令により動いている身体なのかもしれませんが、そんなことは完全に証明されていませんし、今後も期待できないでしょう。脳がおかしいから、犯罪を起こすとかいう論理は、全て鵜呑みにすべきではない。因果関係が全くないとも言いませんが、あまりに即物的で優生学的です。なまじっか、研究データを見せて、そのような論理を展開することに、全く倫理観を感じません。何ゆえに、ここまで科学に物事を語らせたいのでしょうか。こういう使い方は、科学を悪用している部類に入っていると思うのです。
科学を使うことで、僕達が幸せになれることが大事なのです。僕達に生きるヒントを与えてくれることが科学を学ぶ本質なのです。科学は主として論理によって導き出された結論が重要視されますが、結局は、それを導き出すプロセスのほうが重要でしょう。そして、人生のプロセス自体を有意義にする一つの手段として、科学という学問分野があるのだと信じています。科学を使って、吐き気がするような文章や番組を創ることを生業とするのだけは止めて欲しいと思います。僕はそのような人たちに手を貸すようなことをするつもりは毛頭ありません。
]]>僕が今研究でやろうとしていることは、IBMやCaltechで失敗しています。あれだけの財政的、人材的リソースがありながら、ある臨界点で金銭的な制限をかけてしまったからだと思います。科学は本来生産効率などを考えるものではありません。それを考えた瞬間に科学の躍進は足止めを食らいます。その典型例が彼らのプロジェクトだったのかもしれません。結果的に、中途半端な予算で研究を行ったがために、珠玉のアイデアを潰してしまうこととなったのです。もちろん、彼らの発想は悪いものではないのですから、うまく舵を取れば良質なアウトプットを生産することはできるはずです。そのような舵取りが自分だったらできるかは全く予想ができません。はっきり言って、自信はありません。現実問題として、僕は今現在、研究を行う予算すらほとんど持っていないわけですから、ビッグサイエンスをうまくコントロールできるかなんて想像するしかないのです。
しかし、今後の自分の研究の中で、そのような制限のないサイエンスを呼び込んでいくことが、科学革命を起こす一つの条件ともなるでしょう。実現するには、相当ハードルは高いし、無謀とも言える発想なのかもしれませんが、この大学にいるなら一筋の望みが残されています。時間はかかってもいいと思っています。そして、最終的には、この大学で科学を学ぶことが素晴らしいことだと思えるような環境を作れることが僕の望みです。そのためには、僕が全身全霊、全知全能をかけて自分の信じた研究を進めて行くしかないのです。そうすることで願いが叶うわけではないかもしれませんが、僕にできることは今はそれしかない。この大学で科学を学んでよかったと思える研究を実現するために、無数に存在している科学界の箍を外してしまってもいいのではないだろうか。お金も人も良質なものは、とことんまで投入し続けることができる機関が世界に一つでもあれば、科学はもっと純化して行くはずなのだ。
まぁ、皆様から叩かれるのは目に見えています…。税金の無駄遣いだ~とか言われれば、その通りなわけですし…。研究資金を自分のお金で全て捻出できるようになることが先決なのだろうか…。
]]>いじめを撲滅させる試みは、麻薬を取り締まることに似ているかもしれません。現在、麻薬は法律で厳しく規制されていて、持っているだけでも捕まってしまいます。では、麻薬を徹底的に取り締まることで、麻薬の流通は完全に無くなるのでしょうか。いや、むしろその合間を縫って、取引が盛んに行われていることでしょう。吸いたい人はどんなことをしても吸いたいのです。しかも、その危険な取引をしているスリルも快感を助長させることでしょう。むしろ、麻薬を取引すること自体が快感になるかもしれません。では、麻薬取締法を撤廃するのがいいのでしょうか。もちろん、吸わない人は吸わないでしょうが、興味本位で手を出す人はいるでしょう。結局、流通量に大きな変化が見られるとも思えません。
いじめも似たようなロジックです。いじめること自体はもちろん快感ですが、先生に見つからないようにいじめることも快感なのです。悪いことを密かにやることが気持ち悪いと感じるようにならない限り、人間はいじめという行動を抑制しません。いくら頭の良い人が、いじめをなくそうと思っても、人間の性に訴えない限り、その効果はほとんど意味を持たないと考えるべきでしょう。だから、いじめの問題は根強い。いまのところ、解決策は皆無と言っていい。いじめによる報酬体系が変わらないかぎり無理でしょうね、その変化は進化と呼ぶのに相当します。生物学的進化はあまりに遅くて対応し切れませんから、文化的な背景で、それをどこまで変化させることができるか、一つの壮大な挑戦かもしれません。その挑戦に光明がさす日がくるなら、僕らは行動を続けるべきなのでしょう。そのうち、予想外の解が見つかるかもしれません。
]]>その一方で、マニュアルに想定されていない価値基準は一切考慮されません。見る人が見れば、その価値は十分に分かるのだとしても、普通の人にはただの古臭いガラクタにしか見えません。希少価値があろうがなかろうが、希少なものを相手にする必要がないほど、マニュアルの利益率は高いのです。なので、レアなものは排除され、大衆に迎合するものだけが生き残る。それが、現代社会で経済的利益率を最大限に引き上げる主力ともなる考え方なのでしょう。これは人類が行う消費活動をあらわに象徴しているものとして僕らの前に立ちはだかります。そして、この消費の大波の中に僕らはかき消されてしまいそうで、恐怖さえ感じます。人間の創造力など、ちんけな物として扱われてしかるべきのように…。
人間の作ったものなど、確かにちんけな物なのかもしれません。しかし、それを言ったら、この世にある全ての物が、ちんけなように見えてきます。僕らが一瞬でも感動を受けたものには、感謝していたい。そして、それに価値を見出したいと思うものです。でも、それと同じ価値を見出してくれる人は待っていても現れないんでしょう。それはマジョリティではないのだから仕方ありません。価値の評価は主観的なものに過ぎませんが、それを共有できることが救いです。だから、共有できる場所というものを見つける努力を怠ってはいけないのかもしれません。本当は、この世の8割くらいはマイノリティに属すると思います(Zipfの法則)。残りのたった2割の大衆に巻き込まれないで、自分の見つけるべき共有スペースを探し続けなくてはいけないのでしょう。自分の居場所を確保するためにも、やってしかるべき行動に違いありません。
]]>結婚式のような幸せで溢れかえっている場所にいると、もうこれ以上幸せになるのが怖いと思うほど、幸福を感じられます。恋人と二人で幸せを分かち合っている時と同等、いや幸福の度合いなど比べることに意味などないでしょう。感情が暴走して、涙腺が緩みそうになります。言葉が出なくて、抱きしめたくなります。自分があまりに小さくて、立っていられなくなります。けど、幸せで身の震えが止まらない。こんな状況を意図的に与えようと思ったって、そんなこと誰ができるのでしょうか。自分が幸せになることが、他人を幸せにすることなのです。逆に言えば、自分が幸せにならなければ、他人を幸せすることなど絶対不可能です。
自分の幸せを追求することは利己的ではないはずです。誰かを傷つけたり、犠牲にしたりすることもあるかもしれませんが、許される範囲内で、自分の幸福を追い求めてしかるべきだと思います。それが、最終的に、周りにいる人へ元気を与えたり、気持ちを健やかにしてあげることができると考えられるからです。そのような状態になって初めて、他人を本気で思いやれるような気もします。自分に精一杯の状態を脱するには、自分が幸せであることが必要条件なのではないでしょうか。周りの人に与える影響力は、自分の幸福度が高くなればなるほど大きくなるはずです。家にいようが、職場にいようが、遊びに行こうが、どのような環境でもそれは成り立つ。人生には、常に正のフィードバックがかかっていることを忘れずに!
]]>本当に素敵な結婚式でした。
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