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2006年11月30日

ヨタヨタ歩き

長い出張から帰ってきました。そして、日本が誇る大型放射光施設は、僕に多くを教えてくれました。物理屋では思いつかないこと、生物屋でも思いつかないこと、そんな発想の芽を僕に植え付けてくれたような気がします。放射光を用いて生物学の研究を行うのは、タンパク質の結晶構造を解析すること以外、あまり聞かれないことでしょう。物理屋と生物屋が手を組んで研究すること自体、まだ日本では稀なことなのかもしれません。僕は、今回の実験で、この分野の拡大には、大きな未来があることを感じ取ることが出来たのでした。

もちろん、いきなりすごい結果を出すことが出来たわけではありません。これから解決しなければならない問題は山ほどあります。しかし、その解決すべき問題が、非常に判りやすく顕在化しました。自分の進むべき方向が、より具体化してきました。技術的な困難はいくつかあるとは思いますが、非現実なものではありません。僕は、放射光という明るい光を手に入れることで、新しい世界を見ることができるような気がしています。

一時期、研究者という職業に辟易していましたが、こんなに面白い仕事が出来るとは思いませんでした。物書きもやりたいのですが、しばらくは研究に没頭する可能性が高くなるかもしれません。しかし、研究の合間を縫って、サイエンスコミュニケーションの仕事を効率的に絡めていければといいなとは思います。それは、主に竹内薫さんを応援することを意味していて、役に立てることは協力していきたいという感じです。僕が役に立っているのかなんて、自分では全然わからないのですが…。

基礎研究をやっていると、人の役に立っているかどうかなんて、全く実感がないわけです。他に、何か人のためにできることがあることは、心のバランスがとれて具合がいいように思います。結局、僕は人との関わりがないと生きていけないのです。思いっきり、基礎研究をやると同時に、思いっきり人とインタラクションしていきたい。まだヨタヨタですが、そんな風に道なき道を歩いていこうかなと。それで自分も周りもハッピーになれることを夢見ています。

投稿者 はるお : 01:23 | コメント (280) | トラックバック

2006年11月13日

科学の論理的悪用

科学的な事実を聞いても、そこから何も学べないようなら、その事実にあまり意味はないと思っています。そもそも科学的な事実といっても、それが真実という確証があるわけではありませんし、その事実を信じる必要も全くありません。自分が信じたいと思う事実を信じ、信じたくない事実は信じない、科学の世界もそんなもんです。いや、むしろ、そんなもんでいいのです。けれど、科学的事実に権威的な証拠が付されることがあったり、論理の主張に都合よく使われることもあります。その論理に沿って、解決法が提示されることももちろんあるわけですが、下手な結論を導き出すために科学的事実を乱用することもしばしば見られるのです。一見科学で証明されているような論調に見えますが、論理の飛躍や瓦解が至るところに散在しており、結論に吐き気を覚えるたりもするものです。

その様な論調の本があらば、基本的には読まないし、読み始めたところでも最初の数ページで読むのを止めるでしょう。娯楽として読書を楽しみなら、自分が読みたい本を読めばいいのだと思います。無理して吐き気を引き起こすような行為を自ら起こすことはないのです。しかし、そういう類の本が一般の人を錯乱させているのも確かなようです。一見科学的に書かれていることが、読者を惹きつけるのでしょうか。はたまた、その怪しさが良いのでしょうか。ことに、脳関係の本は興味を持つ人が多いでしょうから、人の目に付きやすく、そこに書かれた内容を容易に受け入れてしまうこともあるのかもしれません。

が、危険です。あまりに危険です。脳科学がいかにもよく進展している風に書かれている本ほど怖いものはありません。こういう知見があるからこうだと結論を先走り、いかにもそれが真実であるかのように聞こえるものほど疑いの目を向けましょう。そう簡単に、人間の行動を全て脳に還元できるはずがないのですから。たしかに脳の指令により動いている身体なのかもしれませんが、そんなことは完全に証明されていませんし、今後も期待できないでしょう。脳がおかしいから、犯罪を起こすとかいう論理は、全て鵜呑みにすべきではない。因果関係が全くないとも言いませんが、あまりに即物的で優生学的です。なまじっか、研究データを見せて、そのような論理を展開することに、全く倫理観を感じません。何ゆえに、ここまで科学に物事を語らせたいのでしょうか。こういう使い方は、科学を悪用している部類に入っていると思うのです。

科学を使うことで、僕達が幸せになれることが大事なのです。僕達に生きるヒントを与えてくれることが科学を学ぶ本質なのです。科学は主として論理によって導き出された結論が重要視されますが、結局は、それを導き出すプロセスのほうが重要でしょう。そして、人生のプロセス自体を有意義にする一つの手段として、科学という学問分野があるのだと信じています。科学を使って、吐き気がするような文章や番組を創ることを生業とするのだけは止めて欲しいと思います。僕はそのような人たちに手を貸すようなことをするつもりは毛頭ありません。

投稿者 はるお : 02:03 | コメント (318) | トラックバック

2006年11月09日

制限のない科学

僕はあまりビッグサイエンス(お金と人を大量に投入して行う科学)が好きではないのですが、今のご時世、科学革命を起こすならビッグサイエンスが必要なのかもしれません。しかし、中途半端なことをしてはいけません、やるならとことんやらねばなりません。まさに無制限にお金と人を投入できるような科学が実現すれば、必ずや革命を呼び起こせるでしょう。もちろん、あくまで科学革命を起こさせる一つの方法に過ぎませんが、ビッグサイエンスの効用として、このような発想はありかなと思うのです。

僕が今研究でやろうとしていることは、IBMやCaltechで失敗しています。あれだけの財政的、人材的リソースがありながら、ある臨界点で金銭的な制限をかけてしまったからだと思います。科学は本来生産効率などを考えるものではありません。それを考えた瞬間に科学の躍進は足止めを食らいます。その典型例が彼らのプロジェクトだったのかもしれません。結果的に、中途半端な予算で研究を行ったがために、珠玉のアイデアを潰してしまうこととなったのです。もちろん、彼らの発想は悪いものではないのですから、うまく舵を取れば良質なアウトプットを生産することはできるはずです。そのような舵取りが自分だったらできるかは全く予想ができません。はっきり言って、自信はありません。現実問題として、僕は今現在、研究を行う予算すらほとんど持っていないわけですから、ビッグサイエンスをうまくコントロールできるかなんて想像するしかないのです。

しかし、今後の自分の研究の中で、そのような制限のないサイエンスを呼び込んでいくことが、科学革命を起こす一つの条件ともなるでしょう。実現するには、相当ハードルは高いし、無謀とも言える発想なのかもしれませんが、この大学にいるなら一筋の望みが残されています。時間はかかってもいいと思っています。そして、最終的には、この大学で科学を学ぶことが素晴らしいことだと思えるような環境を作れることが僕の望みです。そのためには、僕が全身全霊、全知全能をかけて自分の信じた研究を進めて行くしかないのです。そうすることで願いが叶うわけではないかもしれませんが、僕にできることは今はそれしかない。この大学で科学を学んでよかったと思える研究を実現するために、無数に存在している科学界の箍を外してしまってもいいのではないだろうか。お金も人も良質なものは、とことんまで投入し続けることができる機関が世界に一つでもあれば、科学はもっと純化して行くはずなのだ。

まぁ、皆様から叩かれるのは目に見えています…。税金の無駄遣いだ~とか言われれば、その通りなわけですし…。研究資金を自分のお金で全て捻出できるようになることが先決なのだろうか…。

投稿者 はるお : 02:01 | コメント (335) | トラックバック

2006年11月07日

いじめは麻薬

なぜか最近いじめの話題で盛り上がっていますね。不思議です、今も昔も実態は変わっていないと思うんですが…。ニュースを介して大きく話題になることで、いじめが減るなら素晴らしいと思いますが、いじめの本質を見破らない限り、それは不可能でしょう。報道している人たちは気付いているのでしょうか、いじめの本体に…。その本体とは、「いじめは楽しい」ということです。人間、楽しいことは止められません。人間にとって、楽しいことは悪いことではありません。たとえ理性で悪いことだと分かっていても、人に迷惑をかけていることを理解していても、止められるものではありません。いじめの本質は、酒やタバコとさして違いがないのです。人をいじめることで、自分は快楽を手に入れているわけですから、助長されることはあっても、無くなることなんてありえないのです。

いじめを撲滅させる試みは、麻薬を取り締まることに似ているかもしれません。現在、麻薬は法律で厳しく規制されていて、持っているだけでも捕まってしまいます。では、麻薬を徹底的に取り締まることで、麻薬の流通は完全に無くなるのでしょうか。いや、むしろその合間を縫って、取引が盛んに行われていることでしょう。吸いたい人はどんなことをしても吸いたいのです。しかも、その危険な取引をしているスリルも快感を助長させることでしょう。むしろ、麻薬を取引すること自体が快感になるかもしれません。では、麻薬取締法を撤廃するのがいいのでしょうか。もちろん、吸わない人は吸わないでしょうが、興味本位で手を出す人はいるでしょう。結局、流通量に大きな変化が見られるとも思えません。

いじめも似たようなロジックです。いじめること自体はもちろん快感ですが、先生に見つからないようにいじめることも快感なのです。悪いことを密かにやることが気持ち悪いと感じるようにならない限り、人間はいじめという行動を抑制しません。いくら頭の良い人が、いじめをなくそうと思っても、人間の性に訴えない限り、その効果はほとんど意味を持たないと考えるべきでしょう。だから、いじめの問題は根強い。いまのところ、解決策は皆無と言っていい。いじめによる報酬体系が変わらないかぎり無理でしょうね、その変化は進化と呼ぶのに相当します。生物学的進化はあまりに遅くて対応し切れませんから、文化的な背景で、それをどこまで変化させることができるか、一つの壮大な挑戦かもしれません。その挑戦に光明がさす日がくるなら、僕らは行動を続けるべきなのでしょう。そのうち、予想外の解が見つかるかもしれません。

投稿者 はるお : 00:13 | コメント (874) | トラックバック

2006年11月06日

8割のマイノリティ

この世の中で経済活動を爆発的に推し進めるなら、難しいことは評価対象から外すのが良いらしいです。誰でも評価できる基準で物事を評価することで、確かに統一的な見解は得られるのかもしれません。たとえば、見た目で物事を評価するという類ですね。綺麗なものは良い、汚いものは悪い…。経済的値打ちをただそれだけで決めてしまう方法は、どんな人でもそのシステムを明瞭に理解することができます。そして、それがマニュアル化されれば、一大フランチャイズ経営の出来上がりです。客の需要に合えば、莫大な利益を生む体質を作り上げることができるようになるわけです。

その一方で、マニュアルに想定されていない価値基準は一切考慮されません。見る人が見れば、その価値は十分に分かるのだとしても、普通の人にはただの古臭いガラクタにしか見えません。希少価値があろうがなかろうが、希少なものを相手にする必要がないほど、マニュアルの利益率は高いのです。なので、レアなものは排除され、大衆に迎合するものだけが生き残る。それが、現代社会で経済的利益率を最大限に引き上げる主力ともなる考え方なのでしょう。これは人類が行う消費活動をあらわに象徴しているものとして僕らの前に立ちはだかります。そして、この消費の大波の中に僕らはかき消されてしまいそうで、恐怖さえ感じます。人間の創造力など、ちんけな物として扱われてしかるべきのように…。

人間の作ったものなど、確かにちんけな物なのかもしれません。しかし、それを言ったら、この世にある全ての物が、ちんけなように見えてきます。僕らが一瞬でも感動を受けたものには、感謝していたい。そして、それに価値を見出したいと思うものです。でも、それと同じ価値を見出してくれる人は待っていても現れないんでしょう。それはマジョリティではないのだから仕方ありません。価値の評価は主観的なものに過ぎませんが、それを共有できることが救いです。だから、共有できる場所というものを見つける努力を怠ってはいけないのかもしれません。本当は、この世の8割くらいはマイノリティに属すると思います(Zipfの法則)。残りのたった2割の大衆に巻き込まれないで、自分の見つけるべき共有スペースを探し続けなくてはいけないのでしょう。自分の居場所を確保するためにも、やってしかるべき行動に違いありません。

投稿者 はるお : 00:55 | コメント (228) | トラックバック